家紋の分布から探る
地方分類



近畿地方には、古代から近代まで、藤原京・平城京そして平安京と永く都があった。八世紀末、 桓武天皇の平安遷都により日本の中心となった京都は、皇室の「菊紋」に代表される王城の地であった。しかし、 南北朝の内乱から応仁の乱を経て戦国時代まで、戦乱の巷となることが多かった。他方、藤原京・平常京のあった 大和は、菅原氏発祥の地で天満宮が多く、「梅鉢紋」にゆかりが深い。摂津は嵯峨源氏渡辺氏の故郷で 「三つ星一文字紋」。いずれにしろ、近畿地方は古代以来、早くから開発されたところだけに豪族の子孫も多く、 家紋も多彩である。また、キリシタン信仰が早くから広まり、 「クルス紋」を用いた武将も多かった。畿内に接した播磨は赤松一族が広がって「巴紋」が多い。
京都府奈良県大阪府兵庫県滋賀県三重県和歌山県


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京都府
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イメージ 京都府は山城・丹波・丹後の三国に別れるが、京都市内を中心として山城国では朝廷が長い間存在したこともあり皇室関係の「菊紋」「桐紋」が多い。 これは、功のあった武家に、菊・桐の紋が下賜された結果と思われる。
丹波は都に近いこともあって、京の戦乱の影響をもろに受けることが多かった。元弘の乱に幕府から後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏が旗揚げをした篠八幡宮も丹波の地であった。このとき、丹波国人では久下弥三郎時重が一番に到着。以下、長澤、酒井、波々伯部、波賀野、小山、志宇知、山内、葦田、余田ら近国の武士が馳せ集まった。久下氏の「一番文字紋」は、 源頼朝からつねに一番乗りであることから許されたという由緒をもつものとして有名。
清和源氏頼季流を称する葦田氏は「撫子紋」を用い、同族の赤井氏は撫子紋に「結び雁金紋」を用いた。長澤氏は中沢氏ともいい「酢漿草紋」、波々伯部氏は「松喰い対い鶴紋」、酒井氏は「三つ巴紋」を使用していた。 武蔵国足立郡から丹波に下り、佐治庄に拠った足立氏は「五本骨扇紋」を用いた。
丹波は室町時代、幕府の管領職を務めた細川氏が守護領国とし、守護代の内藤氏は「輪鼓に手鞠紋」を用いていた。また、常陸国中郡から丹波の金山郷に下ってきた大中臣氏は、のちに金山氏を名乗り「一文字に並び巴紋」、小笠原氏の後裔といい天田郡に勢力を築いた塩見氏は「三階菱紋」を用いていた。やがて、戦国時代になると細川氏は衰退し、国人領主である波多野氏、黒井城主赤井氏らが勢力を拡大して割拠した。波多野氏は出自不明ながら石見の吉見氏の一族とみられ、「竪引両紋」と「丸に抜け十字紋」を用いたようだ。やがて、織田信長が天下統一に乗り出すと、丹波には明智光秀の軍が進攻してきた。 丹波の国人らは波多野氏を盟主として対抗したが、ことごとく没落の運命となった。
丹後国は、足利一族の一色氏が守護職を世襲し、足利氏からの分かれを誇る「二つ引両紋」「桐紋」を使用していた。戦国時代になると、織田氏に属する細川氏と合戦を繰り広げ、手強く戦ったが謀略にかかり滅亡した。 そのあとは、細川氏が田辺城主となり丹後を領した。いまも、田辺にいくと細川氏ゆかりの「九曜紋」がみられる。
●細川勝元の菩提寺-竜安寺の桐紋

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奈良県
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大和は国のまほろば…といわれる奈良県は、菅原氏発祥の地であることから梅鉢紋が多い。郡山城主で「洞が峠」の嬉しくない故事をもつ筒井氏も「梅鉢紋」であった。筒井氏は興福寺の僧兵の子孫で、戦国時代の大和を二分する勢力を有していた。その他、梅鉢紋を使用した大和の武将では井戸、今井、辰市の諸氏が知られる。しかし、この梅鉢紋は六曜星が原型と思われ、菅原氏とのことはのちに付会したものと思われる。柳生は剣豪の里といわれ柳生氏が古くから割拠していた。 柳生氏も菅原氏の後裔を称したが「吾亦紅に雀」を用い「二階笠」ものちに使用した。
大和南部に割拠し、北和の筒井氏と拮抗する勢力を有したのが越智氏で、「遠雁に竜胆紋」を用いた。宇陀郡では宇陀三将が知られ、秋山氏が「楓葉紋」、沢氏が「井筒紋」、芳野氏が「藤丸紋」を使用。南北の葛城郡では吐田氏が「弦巻紋」、飯田氏が「竹葉丸紋」、 箸尾氏が「竹に雀紋」、布施氏が「総角紋」、古市氏が「菊に楓紋」などを使用していたことが知られる。
戦国後期になると、三好氏の家宰から台頭し、ついには主家をしのぎ、足利将軍義輝を殺害するなど、悪名を後世に残した松永久秀が信貴山城主となり、 大和をほぼ制圧、信貴山城に日本初の天守閣を造営した。松永氏は「蔦紋」を用い、最期は信長に叛乱して滅亡した。

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大阪府
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イメージ 大阪府の場合、河内・和泉・摂津の三国に分かれるが、河内では南朝方に尽くした楠木正成が後醍醐天皇から賜与された菊花紋を畏れ多いとして半分を水に流したと伝える「菊水紋」を用いた。和泉は小豪族が割拠し、日根野氏、淡輪氏、和田氏などが知られる。日根野氏は「州浜紋」を用い、のちに大名にまで出世した。摂津地方は戦国期からキリシタン宗が盛んで、 中川氏が「ラテン十字架紋」、池田・高山氏が「花クルス紋」、能勢氏が「切竹十字紋」を使用した。
摂津は京にも近く武家の盛衰も激しかった。池田氏は紀姓といいのちに清和源氏となり、クルス紋のまえは「木瓜紋」であった。中川氏と高山氏は、信長の部将で伊丹城主荒木氏に属していたが、荒木村重の謀反に際して信長に帰属し、村重は滅亡した。荒木氏は秀郷流藤原氏といい「牡丹紋」を使用していた。また、摂津は、多田源氏発祥の地で、多田氏をはじめ伊丹氏らが「獅子に牡丹紋」、また、嵯峨源氏渡辺氏が発祥したところでもあり 「一文字に三つ星紋」などが知られる。大阪で用いられている家紋を概観すれば「桐紋」と「曜星紋」が多いようだ。
●能勢氏の菩提寺-清普寺の切竹十字紋

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兵庫県
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兵庫県は摂津の一部、丹波の一部*、播磨・但馬からなり現在では近畿地方に含まれるが、播磨・但馬の二国は 中世では中国地方に含まれていた。そして、瀬戸内海側の播磨は山陽道、日本海側の但馬は山陰道に分けられていた。
播磨は、守護赤松氏累代における繁栄地で、その一族が広まり「二つ引両紋」と「三つ頭右巴紋」が多い。赤松氏は、村上源氏といわれ佐用郡赤松村から興り、元弘の乱に際して後醍醐天皇方として大活躍した。しかし、のちに足利尊氏の反逆に加担し、以後、武家方として活躍した。赤松氏は「三つ巴紋」を用いていたが、足利氏から賜った「二つ引両」も用い、それらを併せた「二つ引両に巴紋」が知られる。この赤松氏からは多くの一族が分かれ、早い時期に別所、佐用、宇野、小寺の四家が出て「赤松四天王」と称された。さらに在田・広岡・中村・広瀬・孝橋氏などの諸氏と併せて 「赤松三十六家」と呼ばれるほどに一族が繁衍し、播磨は「三つ巴紋」「二つ引き両」が広まった。
赤松氏は満祐のとき将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」で没落したが、応仁の乱で復活した。戦国時代、赤松氏嫡流は置塩城に拠り、龍野城には庶流赤松氏が、東播は三木城を拠点に別所氏、西播は長水城に宇野氏がそれぞれ勢力を持っていた。さらに、上月城主の上月氏、御着城主の小寺氏らが蟠居していた。ともに赤松一族で「三つ巴紋」を用いた。小寺氏は巴紋の変型である「橘藤巴紋」を用いていた。そして、赤松氏に属する糟屋氏が「三つ盛巴紋」、神吉氏が「亀甲に桐紋」、明石城主の明石氏は「竹輪に桐紋」を用いた。赤松一族とその一党は、豊臣秀吉の中国征伐に抵抗し、ことごとく敗れて滅亡、 あるいは没落した。いまも、播磨には赤松氏の後裔を称する家が多く、赤松氏ゆかりの家紋が見られる。
兵庫県の北部に位置する但馬では、守護から戦国大名へと飛躍した山名氏が「二つ引両紋」。山名氏は本姓清和源氏で、新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を称したのにはじまる。鎌倉時代を通じて新田氏を総領として仰いでいた。政氏およびその子時氏の時代が元弘・建武の争乱にあたっている。本来ならば、惣領である新田義貞に従うのが当然の立場であったが、政氏の妻が上杉重房の娘、すなわち、足利尊氏の叔母という血縁により、足利尊氏に従った。「明徳の乱」で、一族分かれて戦ったが、 そのとき、旗印に笹を付け彼我の区別をした。のちに山名氏はそれを記念して「桐に笹紋」も用いた。
イメージ 但馬は日下部一族が繁栄したところで、朝倉・朝来・養父・八木・太田垣・那佐氏らの一族はすべて木瓜紋を使用した。『見聞諸家紋』にも「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されている。八木氏、太田垣氏は、垣屋氏・田結庄氏と並んで山名四天王と称されて、戦国時代には主家山名氏を凌ぐ勢いを見せた。垣屋氏は、桓武平氏土屋氏流で「七曜紋」 を用いたことが、垣屋隆国の位牌から知られる。のち、豊臣大名となったが、関ヶ原の戦いで西軍に属して没落した。
瀬戸内海の東端に浮かぶ淡路では、野口氏が「六曜星紋」、安宅氏が「柊紋」を使っていた。安宅は安宅木とも書き、紀伊国牟婁郡安宅荘より興ったといわれる。 『安宅一乱記』によると、清和源氏小笠原氏流といい「三階菱紋」も用いたという。
上に戻る ●日下部氏の祖-表米命を祭る表米神社の木瓜紋

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滋賀県
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近畿の水瓶「琵琶湖」を擁し、中山道と東海道が分岐する近江国は現在の滋賀県、中世、近江源氏佐々木氏が繁栄した。 佐々木氏の家紋は「目結紋」としてあまりに有名なものである。そもそも佐々木氏は源頼朝の旗揚げに初めから 参加して、鎌倉幕府成立後、諸国の守護・地頭となり全国に一族と「目結紋」が広まった。のちに嫡流は六角と京極の 二流に分かれ、六角氏は江南に京極氏は江北に割拠してそれぞれ戦国時代に至った。
京極氏の被官から台頭して戦国大名となったのが浅井氏で「三つ盛亀甲紋」を用い、長政は信長の妹お市を娶り 織田氏と姻戚関係を結んだが、のちに越前の朝倉氏と結んで信長と対立、敗れて滅亡した。浅井氏が割拠した江北では 今井氏が「巴」、磯野氏が「笹竜胆」、雨森氏が「橘」、井口氏が「井の字」、下坂氏が「目結」、 そして石田氏が「九曜」「大一大万大吉」紋を用いたことが知られる。豊臣大名となった田中・脇坂・片桐氏らも江北 から出た武士たちであった。
近江で忘れてはならないのが甲賀伴氏とよばれる一族である。甲賀伴氏は三河伴氏の分れで、 『見聞諸家紋』に見える「横木瓜に二つ引」の富永氏とは同族関係になる。戦国時代の甲賀は五十三家と称される小武士団が割拠し、 多喜・大原・針、上野、岩根、宮島ら甲賀伴氏の一族もその一角を占めていた。甲賀伴氏は三河の富永氏と同じく 「横木瓜に二つ引」を共通の紋とした。甲賀の総鎮守とされる油日神社の神紋も「木瓜に二つ引両」で、 大原氏らが氏神とした大鳥神社にも木瓜に二つ引両」が刻まれている。さらに、滝川一益を出した滝川氏、 瀬田一帯を領した山岡氏も近江伴氏の分れで「木瓜」を家紋にしている。また甲賀武士としては多羅尾氏が 近衛家ゆかりの「牡丹」、 佐治氏が「扇」、和田氏が「七曜」、三雲氏が児玉党ゆかりの「軍配団扇」、山中氏が「橘」を用いた。佐治氏は団扇の骨の数で 嫡庶を区別し、嫡流に近いほどその数が多いという。
その他、「見聞諸家紋」を見ると京極氏の「目結」紋をはじめ、蒲生氏の「対い立鶴」、多賀氏の「酢漿草」、伊庭氏が「三つ州浜」、目賀田氏の 「三つ杏葉」、高宮氏の「三つ雁」、三上氏の「釘抜」など甲賀武士の紋が収録されている。 珍しい紋としては犬上郡豊郷に拠った 嵯峨源氏渡辺氏流赤田氏の「閂(かんぬき)」があり、いまも菩提寺の瓦や墓碑に刻まれている。釘抜紋の変形には 違いないが、全国唯一のものではなかろうか。
上に戻る ●沙沙貴神社の七つ割目結紋
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三重県
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三重県は伊勢神宮が鎮座する伊勢国と忍者で知られる伊賀国に分かれる。伊勢は平安時代より伊勢平氏が割拠していた関係からその子孫を称する家が多い。関氏もその一流といい、一族の神戸氏らとともに 「揚羽蝶紋」を使用していた。また、伊勢は佐藤氏が繁栄し「源氏車紋」を用いた。徳川家康に仕えた榊原氏も伊勢の 佐藤氏の後裔が正しいとされている。
イメージ 伊勢は南北朝・室町時代から戦国時代まで、村上源氏北畠氏が国司として君臨、尊崇された。「割菱紋」あるいは 「笹竜胆紋」を用い、一族の大河内らは「三つ巴紋」を用いていた。戦国後期、尾張の織田信長が伊勢に侵攻、 北畠氏は信長に抵抗したが、結局、信長の子を養子に迎えて軍門に降った。
伊勢中央部の安濃・奄芸二郡を基盤に成長したのが伊豆の工藤氏一族長野氏で「三つ引両紋」を用い、一族の細野氏、 分部氏らも三つ引両紋であった。この長野氏も信長の伊勢攻めに抵抗したが、北畠氏同様に織田家から養子を迎えて 織田軍に降った。
志摩では、海賊大名九鬼氏が知られる。九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、戦国時代、嘉隆のときに戦国大名化した。嘉隆は織田信長に属し、配下の強力な 水軍を率いて勇名を馳せたが関ヶ原の合戦で西軍に属し自害した。家紋は「七曜紋」と「三つ巴紋」を用いていた。
伊賀は、伊勢平氏の柘植氏が知られ「三つ巴紋」を使用。また伊賀は、服部・百地・藤林らの忍者で知られ、服部氏は「矢筈紋」を用いていた。戦国時代、信長に攻められた天正伊賀の乱で一国潰乱した。徳川家康に仕えた服部半蔵は忍者というより鑓で名をあげ 「鑓の半蔵」の異名をとり、家康二十四将の一人に数えられた。半蔵の家紋は「源氏車の内に矢筈」であった。
●北畠神社の割菱紋
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和歌山県
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紀の国和歌山県は、熊野の神官鈴木氏が、「なぎ」「日の丸」「烏」「榊」「稲」「藤」などの紋を用いた。戦国末期に雑賀鉄砲集団を率いた雑賀孫市も鈴木氏の一族で、幕の紋に熊野神社の神使である「八咫烏(ヤタガラス)紋」を用いた。戦国時代に一大僧兵軍団を擁した根来寺は「三つ柏紋」。 大和朝廷から紀伊国造に任じられ、紀の国の一宮である日前国懸両神宮を祭祀した紀氏は「笹の丸紋」。
平安時代末期より鎌倉時代にかけて、紀伊国在田郡湯浅荘を本拠とし、この地方一帯に威勢を振るった湯浅党は「檜扇に大文字紋」、田辺氏は「扇に松文字紋」、清和源氏甲斐武田氏の一族という湯川氏が「花菱紋」、児玉氏は「団扇紋」を使用している。大和吉野郡十津川村玉置神社の神官にして 十津川郷士の出自といわれる玉置氏は、玉置神社の神紋でもある「洲浜紋」であった。
上に戻る [資料:日本紋章学(新人物往来社刊)]























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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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