篠山には名所・旧跡も数々ありますが、街角にも楽しいところが発見できます。意外な見処、食べ処などなど、篠山ならではのスポットを探索していきます。


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Vol.22 ●幻の丹波青磁に出会える―王地山陶器所
 

丹波篠山といえば「丹波焼」を思い浮かべる人も少なくない。篠山市今田町を中心として、 いまも登り窯を用いて焼かれる「丹波焼」は、平安時代発祥の歴史を有し日本六古窯の一つに数えられている。
丹波焼とは別に「王地山焼」と呼ばれる磁器が篠山にはある。王地山焼は江戸時代末期の文政年間(1818〜1829)、 当時の篠山藩主であった青山忠裕が開いた藩窯で、京都の陶工欽古堂亀祐を招いて技術指導を行い、 青磁・染付け・赤絵といった中国風の磁器を生産した。最盛期の嘉永年間(1844〜1853)には、 幾多の気品ある作品が焼かれたが、明治維新後の廃藩置県で青山藩が消滅するとともに廃窯となった。 その間わずか五十年という儚さ、王地山焼が「幻の磁器」といわれる所以である。
王地山焼の芸術性と技術水準の高さを惜しんだ住民らの熱い思いによって、昭和六十三年(1988)、 百年以上の時を経て所縁の地王地山に陶器所が復興された。以後、かつての王地山焼の特徴である緑がかった色調、 光沢をもった青磁の再現に取り組み、多くの逸品が生み出されている。
王地山陶器所では、常設ギャラリーで古様を伝える作品や新作などが展示され、希望者には王地山焼の染付体験も できるそうだ。旧篠山藩主青山家ゆかりの丹波青磁「王地山焼」、あなたも陶器所で体感してみてはいかが。
〔取材:2011-10/08〕


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Vol.21 ●日本の原風景と出会える 『天空農園
 

篠山から摂津猪名川方面に通じる古坂峠を越えたところにある後川は、羽束川の清流、周囲を取り巻く山の木々、 冬には積雪、四季折々の花々が咲き競うところで日本の原風景はかくやと思わせる山里だ。すぐ近くに平家の落人が 刀傷を癒したという古い歴史を有する籠坊温泉があり、文字通りに「隠れ里」ということばがよく似合うところである。
江戸時代、後川の庄屋を務めたという旧家の茅葺民家が、「学ぶべきは自然、なすべきは労働」をテーマに「農文塾」 として生まれ変わったのは三十年前のこと。以後、東南アジアなどからの農業研修生の受け入れに活躍してきたが、 歳月の流れによる老朽化は深刻であった。
いま、人と自然の共生、生物多様性の確保等の観点から「里山」の価値を見直そうとする動きが活発化するなかで、 歴史ある古民家をふたたび活性化しようとするプロジェクトが進行、「農文塾」は装いを一新して 『天空農園』に 生まれ変わった。
茅葺民家の近くを流れる沢にはワサビが自生し、サワガニやアカハライモリ、モリアオガエルの姿も見える。 農園を囲むスギ林、弥十郎ヶ嶽への登山道、見下ろせば懐かしい田圃と山々、振り仰げば青い天空…。 さ、あなたも「日本のこころ」に出会える『天空農園』を訪ねてみませんか。

〔取材:2011-05/14〕


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Vol.20 ●丹波篠山で「ペルー館」?、に出会う。
 

篠山の目抜き通りといえば、青山通りである。その青山通りにある「二階町」のバス停は篠山観光の玄関口になるところ だ。バス停を降りたらすぐのところに、なにやら小さな店がある。自家焙煎のペルー産チャンチャマヨ珈琲豆で淹れた コーヒーが自慢という「ささやまペルー館」である。
チャンチャマヨとは遥かな南米の地…ペルーのアンデス山中にある渓谷で、チャンチャマヨ珈琲豆はその渓谷で 栽培される原種に近い品種で独特の甘みと香りを持っている。若いころ世界をバックパッキングし、ペルーで チャンチャマヨ珈琲豆に出会ったという主人が、十年間にわたり試行錯誤したという焙煎の技で煎って淹れた チャンチャマヨ珈琲はなかなかの深い味わいである。また、丹波の黒豆を深くローストしたものをベースに、 乾燥させた篠山産のヨモギ・スギナ・ドクダミをブレンドした「丹波篠山薬膳茶」を開発、飲みやすい健康飲料として 人気上昇中だという。
「ささやまペルー館」、なんとも妙な店名だが、そこにはチャンチャマヨ珈琲だけではない本物のペルーがある。 無口だが根はきさくな主人、その横でおおらかに相槌を打つペルー出身の奥さん、ペルー館の不思議な楽しさは 主人夫婦の絶妙な組み合わせが最高のスパイスになっている。あなたもその楽しさを「ささやまペルー館」で 実感してみましょう。
〔取材::2010-08/16〕


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Vol.19 ●修験者の気分が味わえる、筱見四十八滝
 

筱見四十八滝は多紀連山の東方に位置し、岩稜を流れ落ちる水が断崖層に多くの滝をつくり出したもので、 その落差は約130メートル、始終(しじゅう)滝の水が流れていることから「四十八滝」と呼ばれるようになったという。 中世、多紀連山を修行の場とした修験者たちは、まず「四十八滝」で水垢離をしたのち八ヶ尾の大日堂に参じ、 金剛、胎蔵の両行に入ったと伝えられている。四十八滝とはいうものの登り口のキャンプ場より、手洗い滝  →弁天滝 →肩ヶ滝 →長滝(右写真) →シャレ滝 →大滝 →二の滝 →一の滝、 と八つの滝が連なり、それぞれ個性的な表情を競い合っている。
四十八滝めぐりは修験の場であっただけに決して楽な行程ではないが、岩場に咲く四季おりろいの花々を楽しみながらの 山登りはなかなか快適だ。一の滝より垂直にそそり立つ10メートルあまりの鎖場を登り切ると、 そこから先は穏かなコナラやリョウブの林となり、炭焼き小屋の址、谷間を流れる透明の水、なんとも牧歌的な風景が 眼前に広がる。春にはホヤホヤとした新芽、夏には風にそよぐ若葉、秋には一面の紅葉…訪れるたびに表情を 変える雑木林の優しい風景は、疲れた身も心も一気にリフレッシュしてくれること請け合いである。
〔取材:2010-04/19〕


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Vol.18 ●歴史と自然にあふれた大山の里
 

篠山市の北西端に位置する大山は、平安時代、東寺の荘園-大山荘として歴史に登場した古い村である。 鎌倉時代、承久の乱(1221)の戦功により武蔵国の武士中沢左衛門尉基政が新補地頭として大沢に下向してきた。 基政は封建領主制の確立を目指して東寺と対立、ついには大山の三分の二は中沢氏が支配するところとなった。 東寺に伝来する『百合文書』には 荘園支配をめぐる中沢氏との争いの記録が残されていて、中世丹波の様子を知ることのできる貴重な史料となっている。
かつて旧山陰道は亀岡から篠山を経て但馬へと通じ、 鐘ヶ坂の多紀郡側大山の集落追入は宿場町として賑わった。 多くの旅人が往来した大山には人形浄瑠璃、三番叟といった都ぶりの伝統芸能が根付き、安藤広重も描いた 名勝「鬼の架け橋」や「和泉式部伝説」の古跡が点在、「神様の追いかけっこ」といったユーモラスな昔話も 伝来している。さらに、節分のころに咲く「セツブンソウ」を皮切りに、「アズマイチゲ(写真)」「ユキワリイチゲ」など、 いまでは貴重種となった野花が次々と咲き始め丹波に春の訪れを告げてくれる。 古い歴史と懐かしい自然にあふれた大山、一度、時間をかけて訪ねてほしいところだ。
〔取材:2010-03/14〕
*野花のなかには絶滅危惧種のものもありますので、優しく見守ってやってください。


 
Vol.17 ●戦国武将の気分が味わえる 淀山城址
 


篠山市内には丹波の戦国大名として知られる波多野氏が本城とした八上城址をはじめとして、有名、無名の戦国山城が 100城近く存在している。比較的知られる山城としては荒木氏の拠った細工所城址、長沢氏の拠った大山城址、そして、 波々伯部氏の拠った淀山城址などが挙げられる。丹波の戦国領主たちは明智光秀の丹波攻めに抵抗して敗北、 かれらが拠った山城群は荒れるにまかされ、城址へ行くにも道なき道を登らなければならないところが多い。 そのようななかで、淀山城址は遺構の保存状態もよく、小山にあることから登りやすい城址の一つであった。
その淀山城址が篠山城築城400年祭の一環として、地元の方々によって竹薮の伐採、廃棄物の撤去、登山道・標識の 設営などの整備作業が行われさらに登りやすい城址となった。かつて見晴らしの悪かった山上の主郭(本丸)からは、 眼下にデカンショ街道(旧山陰道)を見下ろし、八上城址をはじめ波々伯部氏一族の支城群が一望できる。主郭に立って 四方を睥睨すれば、文字通り、戦国武将の気分が味わえること請け合いのところである。
〔取材:2009-12/07〕
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Vol.16 ●源義経ゆかりの不来(コノ)坂
 


不来坂は「コズサカ」と読みそうだが、「コノサカ」が正しい。デカンショ街道を今田方面に走り、 古市の踏み切りを越えてすぐの峠が不来坂である。源平時代、亀岡の老の坂を越え篠山を経て一の谷に向かった 源義経は、その途中にある古市の峠に平家が待ち伏せしているだろうと予測していた。ところが、 平家の兵はみえず「平家来ぬ坂」と言ったことから名づいたものという。不来坂を越えた義経軍は播磨国三草山で平家軍を破り、一の谷へと駒を進めていったのである。
篠山界隈には、真南条の鞍懸山、小枕の馬口池、大熊の笛の薬師などなど、源義経に関わる伝説が多い。さらに、源頼朝と対立して追われる身となった義経を最初に庇護したのは、多紀連山を修行の場とする御嶽の修験者たちであったともいわれる。意気揚々と平家打倒の軍勢を率いた義経、大功を挙げながら失意の境涯に落ちた義経、 篠山は明と暗の義経伝説が語り継がれているところだ。
〔取材:2009-10/12〕
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Vol.15 ●石垣に残された築城当時の符号
 


篠山市のシンボルでもある篠山城は、慶長十四年(1609)、徳川家康が豊臣恩顧の大名を動員して築いたものだ。いわゆる天下普請とよばれるもので、総奉行は池田輝政、縄張りは築城の名手藤堂高虎が担った。十五ヶ国、二十の大名の夫役、総勢八万人の労力による大突貫工事で、わずか六ヶ月で完成した。篠山城の中心となる大書院は、いま封切られている映画「火天の城」のロケ地になった。
篠山城の最大の見所は石垣の素晴らしさだ。そして、石垣の石には○・□・△・●・卍などの刻印や墨書などの符号が記され、現在、見つかっただけで約二百五十種、二千個以上を数えている。その種類の多さは、大坂城につぐものであろうといわれるが、城の規模からいえば日本一といって差し支えないだろう。石に刻まれた符号を見ていると、怒号や掛け声が飛び交う築城当時の情景が目に浮かんでくるようだ。 あなたも、符号の数々から城造りの熱気を感じてみてはいかがだろうか。
〔取材:2009-08/16〕
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Vol.14 ●可憐な白い花-鷺草の群落
 

篠山市の西方、丹波国と播磨国を扼する西光寺山がある。いま、 西光寺山の丹波側今田の湿地に鷺草(サギソウ)が可憐な花を咲かせている。 鷺草は、ラン科ミズトンボ属、あるいはミズトンボ属を細分化したサギソウ属に分類される 日当たりのよい湿地に育つ多年生の草花。八月中旬から九月初旬に咲く白い花が、 白鷺が羽を広げたように見えることから鷺草と呼ばれるようになった。 愛らしい草花だが、地下茎に捕虫嚢網があり泥の中の微小生物を捕らえる食虫植物でもある。
現在、乱開発や盗掘の影響もあって鷺草は減る一方で、自然の中ではなかなかな見られなくなった。 今田は数少ない鷺草の自生地で、かつてはどこにでも見られる花だったというが、 西光寺山山麓の乱開発、不心得者の盗掘などで鷺草の数は激減している。 現在、鷺草の自生群落の保護と保全に力が尽くされ、次第に個体数も復元されてきつつあるそうだ。 可憐な花だけに持ち帰って育てたくなる気持も分からなくはないが、野の花は自然にあってこそ 美しさが際立つもの、鷺草が西光寺山の麓で安住できるように見守ってほしい。
〔取材:2009-08/19〕
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Vol.13 ●川代渓谷の奇岩群
 

川代渓谷は篠山市内を貫流する篠山川に沿った約4kmの渓谷で、大昔、篠山盆地が湖だったころ、 流れ出る湖水が谷を削ってできたものといわれている。JR福知山線の丹波大山駅から下滝駅までの区間にあり、 渓谷に沿って走る電車から四季折々の景色が楽しめる。渓谷の両側には山々が迫り、 太古より岩に砕ける急流が様々な奇岩・奇勝を作り出している。なかでも面白いのが川岸の岩に穿たれた 「ポットホール」と呼ばれる大小さまざまな穴だ。これは、岩のくぼみに落ちた石が、水の流れによって回転、 長い年月の間に岩を削り取った侵食作用でできたものである。見ると、 まるで岩が「あくび」をしているように見えるものもあり、眺めていて飽きがこない。
川代渓谷は篠山群層という約1億年以上前の地層で、先年、その地層の中から恐竜の化石が発見された。 発見場所は丹波市側にある上久下発電所跡下の河原で、いま「丹波竜」と称されて町おこしに一役かっている。 また、一帯は川代公園として整備され、春には桜の名所として賑わう。上流にある川代ダムのせいか、 素晴らしい清流と言い切れないのが残念だが、春の花見に渓谷美、恐竜との出会いなど、 あれこれ楽しめるところである。
〔取材:2009-05/30〕
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Vol.12 ●四隅の欄干に飾られた猪たち
 

篠山城の外堀をなすかのように流れる篠山川、篠山川には東より弁天橋、京口橋、監物橋、そして渡瀬橋 などの橋が架かっている。弁天橋は河原に祀られた厳島神社に、京口橋は城下の東端京口にあたるところから、 監物橋は戦国時代に波多野氏の重臣であった渋谷監物の居館があったことに、それぞれちなんで 名づけられたものである。渡瀬橋は単純に「瀬を渡る」がそのまま橋の名称になったものであろうが、 面白いのは四隅の欄干に猪の彫像が飾られていることだ。 「猪」といえば篠山の定番だが、あまりにも直裁的で有無をいわさず「篠山に居る!」ことを実感させられる。
ユーモラスな猪像は一度見ると忘れられないものだが、城下側の堤防下に一揆で処刑された領民の供養塚が 祀られていることを知る人は少ないようだ。 篠山藩の年貢は多いところでは「七割!」という重いもので、江戸時代を通じて一揆が頻発した。 猪の像たちは、かつて河原で処刑された領民の供養塚を護っているようにもみえる。改めて猪像を見直すと、その目が 哀しそうなのは気のせいだけではないようだ。
〔取材:2009-05/28〕
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Vol.11 ●神社の板壁に空けられた謎の穴
 

篠山には貞観十八年(876)に勧請されたという黒岡の春日神社を筆頭に、各地に春日神社が鎮座しているが、もっとも南に鎮座しているのが後川上の春日神社だ。 後川は「シツカワ」と読み、武庫川の支流、羽束川の上流に位置する山間の集落である。 朱塗りの鳥居をくぐり古寂びた参道を本殿へと向かうと、原生林を思わせる社叢が広がり、やがて谷川を見おろすように組まれた石垣の上に社殿が見えてくる。
苔むした石段を登り、長床をくぐり、荘厳な雰囲気に溢れた境内へ。本殿は覆い屋に囲まれ、直に見ることはできないのが残念だ。本殿横の山腹にある大峯社に登って何気なく覆い屋を見ると、 継ぎ目に沿って無数の穴があいている。なんとも不思議な光景で、一説にはキツツキが空けたものといわれるが、実際のところは謎である。 山の霊気を感じながら、穴の謎解きに頭を捻ってみるのも面白いかも。
〔取材:2008-04/26〕