篠山の歴史・見処を訪ねる-番外


丹摂播境・住吉神社を巡る


篠山市の今田地区には、住吉神社が村ごとに鎮座している。これは、今田地区がかつて摂津住吉大社の 荘園「小野原荘」であったことによる。すなわち、鎌倉時代の文保年間(1317〜19)に、小野原荘の氏神として 住吉大社の分霊が小野原の地に勧請、創建された。それが、のちに黒石・本荘などに分祀されたことで住吉神社が おおいに広まったのである。
住吉大社に伝来する『住吉大社神代記』によれば、播磨国賀茂郡の椅鹿山(はしかやま)を杣山として領有していたことが 記されている。椅鹿杣山は播磨から有馬・丹波に亘る広大な地域で、船木連の遠祖が領有していたものを、 神功皇后の時代に船木宇麻呂・同鼠緒・同弓手らが住吉大社へ寄進したという。この杣山の一部がのちの多紀郡小野原荘となったもので、おそらく、小野原の住吉神社は 杣山の総社として鎌倉時代以前には勧請されていたのではなかろうか。
いま、住吉神社が今田と境を接する播磨・摂津にも多く鎮座しているのは、丹波西部から東播磨・北摂津一帯が椅鹿杣山として 住吉神社の領有するところであった歴史を伝えたものであろう。


小野原・住吉神社

当社は別名「蛙の宮」とも呼ばれるが、その由来は鎮守の森がガマの伏せた姿に似ていることと、 秋祭りの前日(宵宮)に奉納される「田楽踊り」が蛙の跳ぶさまに似ていることから名づけられたという。 はじめは小野原荘の総社であったが、黒石・本荘・市原・木津・上立杭に分霊されたことで、現在は、 上小野原・下小野原・四斗谷・辰巳・休場の氏神となっている。

■丹摂播境・住吉神社-鎮座図


黒石・住吉神社

小野原の住吉神社を分祀、播磨と丹波の国を扼する西光寺山の西山麓を流れる黒石川の西方に鎮座している。 社殿は西光寺山を望むかのように西面し、境内には岩神を祀るという黒石がドッシリと鎮まっている。黒石川下流の 木津・本荘の住吉神社は、当社を分祀したものといわれている。

本荘・住吉神社

黒石の住吉神社から分祀されたことに始まる。古面をもって御霊代(みたましろ)を 分霊したことから「面の宮」とも称された。この神社には、かつて西光寺山山腹に所在した 金鶏山西光寺に伝来した大般若経六百巻のうち、二百巻が所蔵されている。 廃絶してしまった西光寺の存在を裏付ける史料として貴重なものである。

木津・住吉神社

神社が鎮座する木津は篠山市の最西南の集落で、丹波・摂津・播磨の接点に位置している。三国に通じる交通の要衝だけに、 神社後方にある丘陵上には木津城が築かれ、小野原を名字とする一族が拠っていた。当社は黒石の住吉神社を分祀しことに始まるが、 黒石から分霊を請たとき笠を霊代としたことから「笠の宮」とも称されたという。

市原・住吉神社

中世、摂津住吉大社の荘園であった小野原荘の東部は小野原村、西部を市原村とよばれていた。江戸時代のはじめ、 市原村に移住した波多野秀治の遺児源左衛門による原野開発で今田新田、今田、芦原新田が生まれた。 そして、市原・今田新田・今田の氏神として黒石住吉社から金幣を御霊代に分霊、市原猫谷山麓に祀ったのが始まりという。

今田・住吉神社

虚空蔵山麓に鎮座し、兵庫陶芸美術館がすぐ南にある。本殿は?葺き春日造に唐破風付き、垂木は二軒、斗供は三手先組、精緻な彫り物が木鼻・蛙股・妻飾などに 施されている。現在、覆屋根に囲まれているが、野晒しの期間が長かったためか傷みが目立つのが残念。

中畑・住吉大明神

境内にある石碑に記された由緒書きによれば、創建は天長年間(830年頃)とあり相当の古社である。 鳥居を潜って境内に入ると見える立派な木造の長堂は天保十二年(1841)の造営といい、 本殿は元文三年 (1738)に改築されたものを大正十一年に修理したという。また東方にある西光寺山に あった西光寺が廃絶したとき、西光寺蔵の大般若経のうち四百一〜六百巻を分配された(現在不明)。

住吉・住吉神社

そもそもは、高山(しころ山)の麓に山の神(大山祇神)を祀ったのが始まりで、神社一帯は「切らすの森」と呼ばれていた。 その後、一帯が古代住吉大社の神領「椅鹿山」となったことから、住吉明神が勧請された。そして、本殿・舞殿・長床が 立てられ、神社としての結構が整えられたという。

大川瀬・住吉神社

本殿は南北朝時代の康安五年(正平二十年=1365)に造営されたもので三田市最古のもので、国の重要文化財に指定されている。 当社は全国に2029あるという住吉神社のうち、十大古社の一つに数えられていた。当社が鎮座する大川瀬の地は、 かつて摂津の住吉大社の神領地で、大川瀬住吉神社はその東南を限る位置にあたっている。 境内には県指定文化財の舞殿、長床があり、十を数える末社が祀られている。

上鴨川・住吉神社

本殿は鎌倉時代末期の正和五年(1316)に創建され、室町時代の永享六年(1434)に建て替えられたという。 まことに美しい建物で、昭和三十五年(1960)に国の重要文化財に指定された。境内には舞殿・長床があり、 数々の末社が祀られ、神寂びた雰囲気が漲っている。秋の祭事は厳格な世襲的宮座制度によって守り伝えられたもので、 国の重要無形民俗文化財に指定された貴重なものである。