篠山の歴史・見処を訪ねる-市原


住吉神社







意外に小さな造りの本殿を横から見る

平安時代、今田町一帯は摂津住吉神社の荘園で「小野原荘」と呼ばれていた。そして、小野原荘東部を小野原村、西部を市原村と呼称し、のちに支村として立杭村、古津村、上の村(現在の黒石、本荘)が生まれ、その状態は鎌倉・室町・戦国時代を通じて継続した。一方、鎌倉時代の文保年間(1317〜19)、小野原荘全体の氏神として摂津から住吉神社の分霊が小野原に勧請、創建された。その後、住吉神社は黒石・本荘・市原・木津・上立杭にも分祀され、今田一帯には住吉神社が増えていったのである。市原の住吉神社が建立されたのは、江戸時代初期のことで、市原猫谷山麓に黒石住吉社から金幣を霊代として分祀され、市原・今田新田・今田の氏神となった。
戦国時代、多紀郡一帯に勢力を振るった波多野氏は、波多野秀治の代に明智光秀の丹波侵攻に抗戦して滅亡した。八上城が落ちたとき、秀治の二男の甚蔵は味間に逃れて文保寺に入り修行する身となった。その後、還俗して源左衛門と名乗ると、元和元年(1615)、子源右衛門とともに市原村に移住し、今田新田、今田、芦原新田の原野開発に着手、寛永三年(1626)開発を成就したのであった。同年、源右衛門は西方寺を創建するとともに、開発地の氏神として住吉社の建立にも尽力したと伝えられている。