越後長尾氏
九曜巴(桓武平氏良文流)

 桓武平氏の一族。鎌倉党で坂東八平氏の一つ長尾氏の支流。三浦泰村が宝治の合戦で鎌倉執権北条時頼に敗れたとき、三浦氏の被官として長尾景茂はそれに殉じ、本領を没収された。
 景茂の孫景為が何らかの関係で、上杉氏の被官となり、鎌倉時代末期には上杉氏の執事として働いていた。南北朝の動乱が起こると、景為の子景忠は、足利尊氏の命令で上杉憲顕の執事として越後へ進撃し、各地で新田義貞方の小国・風間氏らと戦った。さらに越中国宮崎城を攻め、勝利を得ている。
 上杉憲顕が越後守護に就任すると、景忠も、その功によって守護代となった。やがて景忠は越後を弟(従兄弟ともいう)の景恒にまかせ、自らは上野国白井城で山内上杉氏に仕え、白井長尾氏の祖となった。
 景恒の嫡子新左衛門尉は蒲原代官だったが、小国氏に夜襲をかけられ戦死し、二男の景春は蔵王堂城に拠って古志長尾氏を称した。のちに栖吉に移って栖吉長尾とも称している。三男の高景は新左衛門尉の蒲原代官を継承し、三条城に拠って守護代となり、その子孫が代々、守護代長尾家を相続した。
 高景は関東管領上杉憲方の二男房方を越後に迎えて守護とし、府内城に住まわせ、自らは鉢ケ峯城(春日山城)に住んだという。高景は勇将としてその名が高く、明国にまで聞こえたが、康応元年(1389)二月佐渡で戦死した。
 高景のあと邦景・実景が守護代として越後国の支配を強めたが、実景は守護上杉房定と戦って敗れた。守護代職は景房の子頼景、ついで重景がつぎ、房定を助けた。重景のあとを継いだ能景は、房定を助けて中郡の検地を実施した。また能景は、父重景の菩題を弔うため、春日山城の麓に林泉寺を建立している。永正三年、越中守護畠山尚順の要請で越中へ出陣し、一向一揆と般若野で戦い戦死した。
 能景の戦死で守護代を相続した子の為景は、五十嵐・大須賀氏らのの反乱を鎮定し越後国内を掌握した。永正四年房能の養嗣子定実を擁立し、房能排斥のクーデターを起こした。そして関東管領で兄の上杉顕定をたよって逃亡した房能を追撃して、天水で房能を自害させた。房能の敗死を知った顕定は関東軍八千騎を率いて越後に進撃、為景は敗れて越中に退き、翌年、軍を立て直して、顕定軍と戦い、長森原で顕定を討ち取った。大永七年、将軍義晴から大名の待遇を与えられ、天文四年には後奈良天皇から御旗を、翌五年には内乱鎮定の綸旨を賜っている。為景は家督を嫡子晴景に譲り、天文五年十二月に六十六歳で没した。
 晴景は病弱で武将としての器量もなく、豪族たちを統率する力もなかった。越後国内の豪族たちは勝手な振る舞いの限りを尽くした。天文十七年、守護定実の調で晴景は家督を弟の景虎に譲り、天文二十二年四十五歳で死去した。
 景虎は越後国を統一し、上杉憲政を擁して関東へ出陣している。永禄四年憲政から上杉の名跡を譲られ、関東管領職に 就任して憲政の一字もらって政虎と改め、以後上杉氏を称した。
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■参考略系図





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