篠山の歴史・見処を訪ねる-住山・味間


松尾山に登る

・2007年11月24日



城址「仙ノ岩」から三田方面を望む

松尾山は篠山盆地を囲む山々の一つで、白髪岳と並んで盆地南西部に屏風状の山容を見せている。南山腹には法道仙人が開いたという山岳寺院-高仙寺跡があり、史料などによれば、その全盛期には阿弥陀堂、不動堂、勝軍地蔵堂、妙見堂などのほか、塔頭が二十六坊を数えたという。
いまも登山道の要所に祀られている明王像や石仏、堂宇の石垣跡や削平地群が往時の繁栄ぶりを偲ばせている。阿弥陀堂跡の一隅に寂しく佇む石仏や石碑に手を合わせ、本堂跡、そして、愛宕堂を通り過ぎると卵塔が林立する墓地跡に出る。かつて高仙寺で修行生活をおくっていた僧侶たちの墓石群で、世の栄枯盛衰を思わずにいられないところだ。



高仙寺は山岳仏教系の寺院としておおいに栄えたが、中世になると多紀郡南西部の酒井荘(旧丹南町南部)を支配した酒井党が崇敬を寄せ氏寺として厚い保護を加えた。戦国時代、酒井党は八上城主波多野氏に属して多紀郡南西部の守りに任じ、明智光秀の丹波攻めが始まると松尾山上に城砦を築いて果敢に抵抗した。
高仙寺跡の後方尾根より頂上にかけて、酒井党の城砦が連なっている。頂上にある酒井氏治の城砦を中核として、三つの城砦群で構成されている。真中の城址東方にある「仙ノ岩」は、かつて僧侶たちの修行の場であったという巨岩で、 その上に立つと●●が縮む思いがするところだが遠く六甲まで望める壮大なパノラマ風景が素晴らしい。





尾根筋にある「千年杉」は立派な大木だが、ほとんど人に知られることもなく、松尾山の歴史を眺めてきた。もし、千年杉が語り部であれば、戦乱で多くの記録を失った丹波の歴史物語を聞くことができるのだが・・・、残念なことではある。
頂上の酒井氏治が築いた城址は、主郭を中心に帯曲輪が築かれ、東方に階段状に曲輪が続き、最東端は土橋を伴った堀切が切られている。小さな城址だが、曲輪や切岸の保存状態も悪くない。主郭には朽ちかけた案内板があるばかりで、樹木に遮られて眺望はいまひとつだが、東北方に多紀連山、篠山市街がわずかに見える。樹木を切り払えば、東方眼下に篠山盆地が広がり、真正面に波多野氏の拠った八上城が望めるところだ。





明智軍を迎え撃った酒井氏治は、大山城の長沢氏を救援して出陣、武運つたなく戦傷死した。残った酒井党も波多野氏の降伏とともに敗れさり、 高仙寺も落城時に焼亡したという。その後、再興された高仙寺は江戸時代を通じて山腹に法灯を伝えたが、大正十年、山麓の南八代の地に移築された。 参詣に不便というのが移築の理由だったというが、 いまも山腹に残されていれば山岳寺院の歴史を伝えるところとして貴重な存在となったと思われるだけに惜しまれる。
松尾山への登山道は、南側の住山集落から白髪岳→松尾山、松尾山→白髪岳に登る登山コースがある。また、東南山麓の南八代から、大沢ロマンの森の火とぼし山からのコース、さらに文保寺からの登山道などがあり、いずれもよく整備された道である。いずれも、四季折々の自然を味わいながらの山歩きが楽しめるコースで、それに修験道の古い寺院、戦国山城めぐりを加えることでさらに楽しさが倍増すること請け合いである。


松尾山-文保寺より登る