篠山の歴史・見処を訪ねる-79


住吉神社






篠山の東方福住に鎮座し、篠山産業高等学校東雲校と向かい合うかたちで建っている。石造の大鳥居をくぐると、正面に立派な本殿が建っている。神社の由緒書によれば、平安時代の永保元年(1081)、丹波国司の任にあった大江匡房が和泉国より住吉大社のご分霊を勧請したものと伝えられる。祭神は住吉三神(上筒男命・中筒男命・底筒男命)、神功皇后でいずれも水に関係する神々でもある。とくに主祭神の住吉大神は、航海の神、農業・産業神、和歌の神として広く崇敬されており、歌人でもある匡房が川筋にあった村の災害の防止と豊作を祈って祀ったものであろう。例祭は「水無月祭」として知られ、毎年、八月の第一土・日曜日に催される。宵宮には氏子の村から山車が集まり、打ち込み囃子の共演が行われる。
室町時代、一品式部卿邦高親王が参詣、領主の仁木氏や籾井氏が保護を続けた。天正四年(1576)、明智光秀の丹波攻めによって、籾井城、禅昌寺、如来寺などとともに住吉神社も全焼した。その後、篠山藩主となった松平康信が修復田を寄進して再建、現在に至っている。鳥居横にある鐘楼は神仏混交の名残で、寛文二年(1662)、松平康信が寄進したもので、石垣の基壇の上に四脚単層、総欅造り本瓦葺の同道たるつくりだ。鐘楼にかけられていた鐘は「寛文二年八月二十六日丹波国多紀郡籾井庄、冶工近藤丹波掾」の銘があったが、戦時中に供出され、現在のものは昭和四十二年に新しく寄進されたものだ。
本殿の左隣にある社務所はかつての神宮寺の名残である。社務所書院の表と裏に、昭和四十六年(1969)、重森三玲氏によって作られた庭園がある。とくに裏庭は「住之江の庭」といわれて、なんとも不思議な風景を作り出している。

写真:枯山水「住之江の庭」後方に見えるのは籾井城址