篠山の歴史・見処を訪ねる-35


春日神社







秋季祭礼の山鉾巡行

平安時代はじめの貞観年間(859〜77)、日置荘を所領としていた藤原基経・時平父子が、藤原氏の氏神である奈良の春日大社よりご分霊を笹山の地に勧請したのが始まりと伝えられる。祭神は、天児屋根命、武甕槌命、経津主命、姫大神の四神である。
慶長十四年(1609)、笹山に篠山城が築かれたことで山内東山に遷され、さらに現在の黒岡の地に遷された。秋の祭礼は、金御輿、太鼓御輿の勇壮さ、華麗な飾り付けを施された九基の鉾山が笛や鐘の囃子を響かせながら巡行する雅さとがミックスした丹波随一のものである。京都祇園祭の山鉾を模した鉾山は、京のものと比べて三分の二ほどのサイズではあるが、小京都篠山市内を巡行する情景は本場京の祇園祭に劣らない情緒を醸し出す。
境内にある能楽殿(能舞台)は、文久元年(1861)篠山藩第十三代藩主青山下野守忠良が寄進したもので、舞台背景に描かれた松の絵は、当時箱根以西において最も立派なものであると称えられた。舞台の床下には床板を踏む音響効果を高め反響させるための七個の立杭焼の大甕が埋めてあるなど、全国に数ある能舞台のなかでも屈指のものとされ、国の重要文化財に指定されている。正月の一月一日に「翁」の神事が奉納され、桜咲く四月上旬に「篠山春日能」、秋には「丹波夜能」や狂言が奉納されている。
絵馬堂には十数枚の絵馬が掲げられているが、松平忠国が明石に転封の際に奉納した狩野尚信筆という「黒神馬絵馬」、篠山藩士塀和佐内が奉納した「大森彦七絵馬」が双璧である。とくに「黒神馬絵馬」は素晴らしい筆致で描かれ、馬が絵から抜け出して黒岡の畑の豆を食い荒らしたという伝説があり、かつては金網で覆われていた。現在、それぞれ市の文化財に指定されている。


写真:黒神馬絵馬【左】、大森彦七絵馬【右】


【関連リンク:春日神社の鉾山