千葉氏の家紋は「月星」紋が、あまりに有名である。ところで、千葉氏は、月星紋を使用する以前には「松竹梅鶴」や「五葉の根たけ(笹)」紋であったとされる。「松竹梅鶴」の意匠は不明だが、「五葉の根たけ(笹)」は九州千葉氏の子孫である徳島氏や上総系千葉氏の子孫とされる岩手県の新渡部氏らが現在も家紋として使用している。
千葉氏の家紋として最も知られる「月星」紋は、「斜め左に向いた上向きの三日月に一つ星を加えたもの」とされているが、この意匠が使われだしたのは江戸時代中期以後のことで、それ以前の月星紋は「上向きの三日月に一つ星を加えた紋」や「上向きの三日月の周りに九星を加えた紋」であたことが、東北千葉氏の調査で明らかにされている。
千葉氏の一族は東北に多く移住しているが、そのなかで亘理郡に移った武石氏の子孫である湧谷伊達氏の文書として有名な『湧谷文書』に「御幕紋之儀ニ付下総国ニテ千葉 妙見之縁起図井ニ公儀エ被仰上候品有リ」と題する文書がある。この文書は元禄元年(1688)、仙台藩一門の湧谷伊達氏の当主であった伊達宗元が主家である仙台伊達氏より日光東照宮の修理の総奉行を命じられた際、宗元はこの工事の際に掲げる幕を新調するにあたって下総国千葉村に使者を派遣して千葉氏の家紋の調査をした報告書である。
宗元は、日光東照宮の修理の総奉行に任命されると、仙台藩主伊達綱村より幕の「紋」に仙台伊達氏の「竹ニ雀」の紋に加えて千葉家の家紋を用いるように命じられた。湧谷氏はもともと亘理氏を称し、亘理郡に移住した千葉氏の一族武石氏の嫡流であった。しかし、戦国時代末期に伊達氏より養子を入れ、慶長十一年に伊達氏の一門となって以来、千葉氏の家紋とされる月星紋から伊達氏の紋であった「竹雀紋」に替えていたため、千葉氏の家紋の意匠は不明となっていた。
このため、宗元は千葉氏の家紋の紋形を調査するため、元禄二年正月二十三日、家臣を下総の妙見寺に遣わして調査を実施したのである。使者達はまず千葉妙見宮の別当寺であった尊光院に赴き、妙見宮内に安置されていた妙見の「正躰」の左右の紋と千葉の在々で妙見祭の際に使われていた紋を調査した。その結果「正躰」の左右の神紋は「九曜之様成十曜又中ニ半月ニ九星二色ニ御座候」と書かれ、中央は満月もしくは半月で周りに九星を配した「十曜紋」であった。このうち「正躰」の右紋は金紋であり、斗帳や仏閣などの紋は中央が満月であったとされている。また、「妙見御祭節在々所々ヨリ氏子上候ニモ半月ニ壱ツ星ニ御座候」とあり、氏子が祭には白地に「半月に一つ星」の紋を付けた旗を掲げていたことが記されている。
この報告書に書かれた紋と一般的に千葉氏の家紋とされている「月星紋」は大きく違っている。すなわち。「月星紋」とは「半月に星一つを向かって左上に配した紋」を指すものとされているからである。このように江戸初期の千葉氏の家紋の紋形と現在千葉氏の家紋と伝えられている月星紋の紋形とは違いがみられる、その理由は、千葉氏の家紋が江戸時代中期以後、変化したからと考えられるのである。
九 曜・満月に九曜(十曜?)・三日月に九曜(半月に十曜?)
では、江戸時代以前の千葉氏の家紋はどのような形をしていたのだろうか。
文献上、千葉氏の家紋に冠する最も古い記事は『闘諍録』のなかの「可差千九曜之旗」という記述である。「千九曜」の形については、「今ノ世ニ月星ト号スル也」と書き込まれていることから、書き込みが加えられた時期と考えられる鎌倉時代末期頃には千葉氏の紋は、将門が「妙見」から与えられたとされている「千九曜紋」を用いていたものと考えられる。この紋形については「千九曜」とされていることから、九つの星が配された多曜紋であったと推測される。
千葉氏の紋が『闘諍録』に書かれていたように、妙見より将門に与えられた「千九曜紋」を平良文を経て千葉氏に伝承したものであり、この紋が「月星紋」と呼ばれたことから、中央の星を月とし、周りに星を配したものであったと考えられる。この紋に最も類似した紋は、前記の『湧谷文書』にある「中央を半月とし、周りに九星を配した十曜紋」である。そして、湧谷伊達氏の使者は「報告書」において、この紋を家紋とすることを進言しているのである。
また、さきの報告書には、鎌倉時代以前に分立した千葉六党の東氏の支族であり、江戸時代に大名となった遠藤氏や南北朝以後、千葉氏から分立した九州千葉氏の子孫である鍋島藩士の千葉氏なども、中央の星を月とし、周りに九つの星を配した「半月の十曜紋」を使用していたことが書かれている。
このように、千葉氏本宗家の直系の子孫であった九州千葉氏の子孫や、室町時代前後に千葉氏から分かれた遠藤氏などの家紋が、いずれも「十曜紋」であり、千葉妙見宮に安置されていた妙見の「正躰」の左右の紋が「十曜紋」であったこと、また、千葉妙見寺旧蔵の『千葉氏幕紋図』に千葉氏の家紋として満月と半月の十曜紋が書かれていることから、千葉氏の家紋は、もともと「半月の十曜紋」であった可能性が高いのである。
●千葉一族の多曜紋
七 曜 ・ 八 曜 ・ 十 曜
なお、千葉氏の家紋については、本家と分家とで使い分けがなされていたようである。江戸時代後期の史料である「千葉氏伝考記』には、「その嫡流は、月星を象りて家紋となし、末流は諸星を以て家紋とす」と書かれている。この史料にある「月星紋」を「半月の九星」とすると、千葉氏の嫡流の家紋は「半月の九曜紋」ということになる。また、一族の紋は「満月の九曜紋」や「九曜紋」「七曜紋」などの多曜紋に相当すると考えられる。
さらに、前出の「報告書」には「半月と満月の九曜紋」のほかに二種類の「半月に一つ星紋」が、千葉氏代々の「紋」として報告されている。これらの紋の形は「半月紋」によく似ているが、半月の傾きや一つ星の壱などの配置は大きく異なっている。これらの紋がどのような使い方をされていたのかは不明だが、調査が実施された元禄年間には「千葉妙見宮の大祭の際に在々所々の氏子が白地に付けたもの」と書かれていることから、千葉妙見宮の神紋であった「十曜紋」とは別の使い方がなされていたものと思われる。
千葉氏の家紋とされる「月星紋」は、江戸時代中期いに現在の形に変化したちお推定される。すなわち、今日、一般的に「月星紋」よ呼ばれている「三日月に一つ星紋」が千葉氏本宗の紋とされたのは、比較的新しいことであった、といえるようだ。
「報告書」に書かれた「月星」紋(左・中)/現在いわれている「月星」紋
[資料:千葉一族]
|