拾い話
大名細川家の七つ紋



 江戸時代、城内における刃傷沙汰はきつい御法度であったが、忠臣蔵で知られる松の廊下事件をはじめ、前後七回を数えている。いずれの事件も加害者と被害者との間には、程度の差こそあれ因果関係があった。ところが、延享四年(1747)に起こった刃傷沙汰は、被害者の肥後熊本藩主細川越中守宗孝にはまったく見に覚えのないものであった。
 事件の起こったのは八月十五日、月例の将軍拝賀の日で細川宗孝も定紋を打った礼服に身を包み早朝より登城して大広間に詰めていた。辰のとき(午前八時ごろ)、大広間の裏にある厠に立った宗孝は、突如、背後より何者かに斬りつけられ深傷を負ってしまった。朝会に参列の諸侯たちは大騒ぎとなり、目付等が玄関のまいら戸を閉ざし、諸門を閉じて犯人の姿を探したが見つからない。その間、数箇所におよぶ深傷を負った宗孝は重態に陥り、駕籠に載せられて藩邸へと帰っていった。やがて、大広間の厠に潜んでいる旗本寄合席六千石の板倉修理勝該が発見され、目付の取調べに対して刃傷におよんだことを白状した。
 慌ただしく一日は暮れたが、肥後細川家は御家存亡の一大事に直面した。殿中での刃傷沙汰は原則として喧嘩両成敗であり、重態の宗孝には跡継ぎとなるべき男子がなかったのである。翌日、老中の堀田相模守が細川藩邸を訪ね、継嗣のことは仮の養子として弟の民部紀雄を届けているから、安心して心置きなく養生にはげむようにとの見舞いの言葉を伝えた。それを聞いて安心したのか、宗孝はその日のうちに息を引き取った。享年三十二歳であった。幕閣は刃傷事件が人違いであったことを確認していたようで、細川家は危ういところで事なきを得た。加害者の勝該は、二十三日、預けられていた水野忠辰の邸で切腹、家は改易となった。
 下手人の板倉勝該には日ごろより狂気の振る舞いがあって、行く末を心配した家人が本家の板倉勝清に相談をした。 勝清も分家の行く末を案じ、勝該を隠居させたのち自分の子にあとを継がせようと考えた。それを知った勝該は勝清が 自分の家を乗っ取ろうとしていると思い込み、勝清殺害を計画するようになった。 事件当日、あれこれと理由をつけて 登城した勝該は、勝清を一太刀に切り捨てんと大広間の厠に潜んで待ち伏せしていた。そこにあらわれたのが宗孝で、 礼服の定紋「九曜」は板倉勝清の紋「九曜巴」と非常によく似ており、勝該は家紋を見誤って宗孝に 斬りつけてしまったのだ。宗孝にとってはまことに不運な事故であった。
………
・家紋:九曜(右)/九曜巴

 事件のことはあっという間に江戸中に広まり、八月十五日が仲秋の名月にあたっていたことから、口さがない江戸っ子たちは

 「剣先か 九曜へ あたる十五日」 

 「名月に 九曜の消へる 不慮なこと」 

などと、事件を見事に揶揄した川柳を詠んでいる。江戸っ子にかかっては、大名家の浮沈にかかわる一大事も格好の時事ネタに過ぎなかったようだ。
 思いがけない災難に遭った肥後細川氏は、刃傷事件後、細川家では中央の円に周囲の八つの小円がぴったりついて囲んでいた九曜紋を、中央の大円から小円がはなれている意匠に改めた。以後、細川家の九曜紋は「はなれ九曜」と呼ばれるようになり、従来の九曜紋には「寄り九曜」という呼称が生まれた。さらに、細川家では念を入れて礼服の紋をこれまでの五つ紋に加えて二個付けることとし「細川の七つ紋」といわれるようになった。しかし、この事件があってから、民間では九曜紋を「苦労紋」とか「苦悩紋」などと呼んで嫌うようになり、使用するのを敬遠する者が増えたという。九曜紋にとっても、見に覚えのないとんだ災難であった。
………
・家紋:離れ九曜
・この記事は、歴史読本(新人物往来社刊)一月号に執筆した「江戸城中家紋誤認事件」より書き直したものです。



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