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延享四年(1747)八月十五日、月例の拝賀式に諸大名が総登城したときのこと。肥後熊本城主の細川越中守宗孝が大広間の厠に行くと、突然、寄合衆の板倉修理勝該に背後から斬りつけられた。加害者の板倉修理勝該は厠の中に隠れていたが、ほどなく捕えられて切腹を命じられた。一方、深傷を負った宗孝は翌日死亡した。 修理が刃傷に及んだ理由は、修理には日頃から狂気の振るまいがあったので、本家の板倉佐渡守勝清の計らいで廃嫡することにした。それを恨んだ修理は勝清を殺そうと窺っていて、誤って細川宗孝を殺してしまったのだった。 それというのも、板倉家の家紋は巴を九つ描いた「九曜巴」紋で、細川家の九曜星紋とたいそうよく似ていた。そこで誤って宗孝に斬りつけたのだった。間違えられた宗孝としてはとんだ災難であった。 思いがけぬ災難にあった細川家では、その後、ふつうの五つ紋のほかに袖の内側にも二つ紋を付けることとし「細川の七つ紋」といわれるようになった。 しかし、この事件があってから、民間では九曜紋は「苦労紋」とか「苦悩紋」などと呼ばれて嫌われ、使用するのを敬遠されるようになったという。 ![]() ![]() 【左:九曜/右:九曜巴】 |