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京極氏
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 近江源氏佐々木信綱の時、その所領が四子に分割され、長男重綱は坂田郡大原庄を、次男高信は高島郡田中郷を、三男泰綱が愛智川以南の近江六郡を与えられて佐々木氏の嫡流として六角氏となった。
 四男氏信は、大原庄、高島郡田中郷を除く江北の愛智・犬上・坂田・伊香・浅井・高島の六郡を相続し、京都の館が京極高辻にあったことから京極氏と呼ばれるようになった。
 以来、京極氏は、元弘・建武の争乱に際しては足利尊氏に従って各地に転戦し、ことに世にバサラ将軍と呼ばれる五代高氏(道誉)の活躍によって、宗家六角氏をしのぐ勢いを示し、山名・一色・赤松の諸氏に並んで四職の一つに数えられるほどになった。
 また道誉は近江のほか、出雲・上総・飛騨の守護職となり、それら地域へ京極氏の力が波及していく基となった。
 持清は嘉吉元年に家督を継ぎ、応仁の乱では東軍に属して戦っている。持清から高清に至る間は各種系図によって混乱がある。つまり、高清を勝秀の子とするか、持清の子として政経・政光の弟とするかという二説に整理される。「寛政諸家譜面」には「勝秀嫡男」という注記があり、そこらあたりが妥当なところかもしれない。
 文明十八年高清と政経・材宗父子との間に激しい家督争いが繰り広げられ、最終的に高清が京極惣領職を安堵された。しかし、高清方の勢力は弱く、結局隣国の斎藤利国の援助を受けて江北を保ことになった。
 その後利国の自殺ということがあって、高清は海津に流寓するというありさまだった。やがて、有力家臣の上坂氏の助力によって復帰することができた。しかし、それも束の間で、高清を擁して専権を振るう上坂信光打倒のため、浅見貞則を盟主とする浅井亮政・三田村忠政・堀元積ら有力国人領主が国人一揆を結んで上坂信光と京極高清・高慶父子を国外に追放し、新守護に高延(高広・高秀)を戴いた。以後の江北は、浅井・六角の戦いということになるが、その起因は高広と高佳の争いにあったのである。
 高佳の子高次は浅井氏滅亡後、信長に仕え、本能寺の変では明智方に与し、いったんは没落の身であった。しかし、妹が秀吉の側室となって赦され、大津六万石に封ぜられた。関ヶ原の役では、徳川方として大津城に籠城、戦後は若狭八万五千石となった。

六角氏の情報

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■参考略系図



戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ


日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城

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