●鷹の羽紋
『見聞諸家紋』では、欄干丸に鷹の羽の町野左近将監敏康、並び鷹の羽の菊池氏。違い鷹の羽の後藤左京亮、抱き鷹の羽に二つ引両は美馬氏、三本鷹の羽の稲毛氏。摂州の太田氏は一つ引両に違い鷹の羽、加州の倉光氏は五本鷹の羽、中村氏は丸輪に違い鷹の羽、福井氏は違い鷹の羽がみえる。『長倉追罰記』は菊池氏だけ。戦国末期に土岐氏族の浅野氏が違い鷹の羽を用いた。
【違い鷹の羽】
●竹・竹に雀紋
『見聞諸家紋』では、竹の丸に亀甲の朝倉下野守、三本竹の粟飯原氏、竹の丸に雀の上杉氏・箸尾藤徳丸、違い竹の河村氏、竹の丸に桐は明石越前守・上神氏・大鳥氏などがみえる。竹に雀紋は、上杉氏から長尾氏・伊達氏へと伝わっていった。その伊達氏はまた最上氏へと分譲している。
【竹に雀】
●橘紋
『見聞諸家紋』のころ(応仁末年=1468〜文明二年=1470までの間に成立)では、武家の間に多くみあたらない。薬師寺掃部助元隆の三つ橘紋と小寺藤兵衛尉の三つ橘に藤巴が記載されている。戦国末期に台頭する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘紋をしようしていた。
【橘】
●蔦紋
椎名氏、富田氏などのほか、高安河内入道永隆の紋が『見聞諸家紋』にみえる。戦国末期に台頭した六郷氏や藤堂氏が蔦紋を用い、徳川一族の松平諸家のほとんどが蔦紋。しかし、応仁の乱直前のころの合戦をモデルに書かれた『永倉追罰記』には蔦紋がない。従来、蔦は葡萄の葉から考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私見としてあげれば、足利氏の桐紋の下賜が、次第に直接的ではなく、多くは賠臣的立場への派生を帯び、そのまた家来へと枝条的となっていったため、桐紋氾濫を避けるデザイン的知恵が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐紋の下部の葉だけを残し、上の花を除いてその部分を葉に変えれば、桐紋が一転して蔦の紋となる。まだ花咲かぬという謙譲の精神をこめ、末梢的系譜の人々へ与えたのではないだろうか。
【丸に蔦】
●鶴紋
『見聞諸家紋』では、楢葉左京亮の対い立鶴、佐脇五郎明房の雲月に舞鶴、波々伯部彦次郎賢豊の松喰い鶴、大和氏・遠江の蒲生氏の二つ引両に対い立鶴、石川氏の飛び鶴がみえる。『永倉追罰記』には高井左衛門尉の松に鶴、南部氏の菱鶴、近江御門の後裔葛山備中の庵の内対い鶴などがある。戦国末期には、諏訪氏や森氏の鶴の丸などがある。
【鶴の丸】
●巴紋
古代に海の彼方から渡来したデザインである。『見聞諸家紋』には、曽我氏の雲に左三つ巴、赤松兵部少輔の二つ引両に左三つ巴、宇都宮氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景・越後の長尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鱗巴、丸豊前七郎朝達の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ積み巴、山下左京亮の桝形に右三つ巴、金山氏の一つ引両に並び巴がみえる。その他、厳島・大野・温科氏らの替紋として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宮の神紋であった巴紋は、武家社会で人気があったことはいうまでもない。
【三つ巴】

●『羽継原合戦記』を読む ●『見聞諸家紋』を読む



【別冊歴史読本-52号 故能坂利雄氏論文より引用】

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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