桐 紋
中国では桐の木には鳳凰がきて鳴くめでたい木と呼ばれ、
やがて聖天子のシンボルとなった。
五七の桐 五三の桐 丸の内頭合せ三つ桐 割り桐

 桐の木は、いまでも箪笥や調度品の高級材として用いられている。昔、中国では桐の木には鳳凰がきて鳴くめでたい木と呼ばれていた。鳳凰は想像上の鳥だけに鳴き声はわからないが、中国では「聖天子誕生」と鳴いたという。それから桐は天子のシンボルとなっていった。わが国にもこの思想が輸入された。
 また、『韓史外伝』にも「皇帝が中宮に斎くとき、鳳が帝の東園に止まり、梧樹に集り竹の実を食す」とある。聖天子と鳳凰と梧桐と竹が、切っても切れない縁にあったことがうかがわれる。
 それから、天皇の御衣に「桐・竹・鳳凰」の文様が用いられ、やがて、桐紋は皇室の紋章として鎌倉時代末期までには定着していった。
 鎌倉時代の絵巻物『蒙古襲来絵詞』を見ると、大野氏の旗に桐紋が描かれている。また、『太平記』には、桐一揆の名がみられることから、武家の間でも桐紋が用いられていたことが知られる。
 『見聞諸家紋』を見ると、進士氏が「丸の内頭合せ三つ桐」、藤民部が「亀甲の内五三の桐」、安部氏が「桐に安の字」、明石・大島氏が「笹輪の内五七の桐」を用いている。
 桐紋は、紋のなかでももっとも多くの家に用いられているものの一つである。桐紋がこのように広まっていたのには、その意匠が美しいことと、高貴な紋であることから人々に愛されたこともある。しかし、皇室の紋である桐を、功のあった臣下に下賜されたということがあった。皇室はとくによく仕えた将軍家に桐紋を下賜した。足利氏も織田氏も豊臣氏も桐紋を賜っている。
紋  そして、かれらが功績のあった部将に桐紋を与えた。たとえば、足利義満は細川頼之に、義政は石野・薬師寺氏に、義晴は大友・朽木・曽我の諸氏に、義輝は武田・上杉氏に、義昭は織田信長に桐紋を下賜した。
 このように天下の将軍から桐紋を賜ったことは名誉なことで、さらにそれを家臣に与えるということになった。はては、勝手に使用する者もでてきた。こうして桐紋は増加し、ついには天正十九年(1591)には禁令が発せられる事態となった。当時、いかに桐紋が広まっていたかがうかがわれるのである。
 織田信長の死後、天下を制した羽柴秀吉は、誇れるほどの氏を持たなかったことから、皇室に奏上して「豊臣」の姓を賜った。このとき、桐紋の使用も許された。そして、秀吉は功のあった部将に対して、豊臣姓と桐紋の使用を許したことから、桐紋はさらに広まっていった。
 このとき、五七の桐は、加賀の前田・陸奥の伊達・土佐の山内などの諸将が、五三の桐は、豊後の毛利・但馬の仙石・播磨の脇坂・丹波の谷・備中の関などで、秀吉は桐紋を与えることで人心を収濫した。つまり、政治的に利用されたわけだ。
 ところで、徳川家康が将軍となったとき、皇室は桐紋を下賜しようとしたが、家康は「家に伝わる葵の紋があるゆえ」と、きっぱりとこれを辞退している。これに面目を失した皇室は、以後、桐紋を下賜しなくなった。家康の面目躍如たるところだが、ひとつは、豊臣家の桐紋を嫌ったものであったのかも知れない。いずれにしても、徳川氏の葵紋が一段と格を上げたことになった。

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写真:京都竜安寺にて

桐紋を使用した戦国武将家
明石氏 足利氏(鎌倉公方) 足利氏(将軍家) 大矢野氏 神吉氏 豊臣氏
永原氏 堀内氏 本庄氏 横瀬氏 留守氏

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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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