戦国山城を歩く

酒井党の城跡を訪ねる

・2007年06月 → 2009年10月


かつて主殿保と呼ばれた当野集落の山麓で見つけた風景(20070616)

酒井氏は鎌倉御家人の一で、丹波国多紀郡南西部の犬甘・主殿・油井保を領して中世の丹波に小さからぬ足跡を刻んだ。 酒井氏は栗栖野・当野(竹内)・八代に分立し、さらに矢代からは初田・宮林・平尾氏ら、 油井からは山俵・西垣・平井氏らの庶子家を分出して一族はおおいに繁衍した。
応仁の乱ののち、丹波守護細川氏の被官波多野氏が多紀郡に入部してきた。永正四年(1507)、 ときの幕府管領で細川氏惣領の政元が暗殺され、細川氏二流の乱となった。この事件を契機に波多野氏は勢力を伸張、 酒井氏は大山の中沢氏らとともに波多野氏と対立した。永正五年、酒井氏は波多野氏に敗れたようで勢力を失墜、 その後、波多野氏の勢力下に組み込まれていった。そして、酒井一族は矢代酒井氏を惣領として、 多紀郡南西部一帯に南矢代城、栗栖野城、大沢城、油井城などの城砦群を築いて摂津方面への防御に任じたのである。




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高仙寺城址大沢城址


古市方向から松尾山を見る 山上の曲輪 酒井主水介の墓 / 南矢代方向から城址を見る 階段状続く曲輪
・登城:2007年6月2日-2008年1月1日-2009年9月16日 ・ 2008年7月13日-2009年9月16日

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禄庄城址南矢代城址

篠山口駅から城址を見上げる 曲輪に石垣の残片? / 南側から城址を遠望 曲輪切岸に祭られたお地蔵様 主郭切岸と腰曲輪
・登城:2008年7月13日 ・ 2009年8月26日-2009年9月16日

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波賀野城址油井城址

波賀野交差点から城址を見る 主郭切岸と帯曲輪 / 田松川と天神川の合流点から城址を遠望 北曲輪と南曲輪を穿つ堀切 主郭に祀られた酒井上野介の供養塔
・登城:2009年9月16日 ・ 2007年6月10日-2009年10月30日

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栗栖野城址 → ゆかりの史跡

栗栖野城址を遠望 山上の曲輪 / 当野に残る酒井氏の古墓 松尾山山上に残る高仙寺址の三体仏 山麓に移築された高仙寺
・登城:2007年6月2日


永禄年間(1558〜70)、矢代・油井・初田・栗栖野の酒井四家は松尾山高仙寺に土地を寄進、 乱世を生き抜くために一族の結合を図っている。寄進額はそれぞれ十石というもので、矢代酒井氏を中心として 四家はほぼ同格の立場で行動していたことが知られる。天正三年(1575)、明智光秀の丹波攻めが開始されると、 酒井一族は波多野氏に属して明智勢に対峙した。そして、酒井一党は一族の結束の拠点である高仙寺に 新たに山城を築いて徹底抗戦を貫いた。
天正六年、三月に油井酒井上野介、八月に八代酒井主水助が戦死し、 栗栖野酒井氏は開城、大沢城の初田酒井勘四郎は八上城が落ちたのち明智氏に従ったという。 かくして、中世の丹波を生きた酒井氏は国人領主としての歴史に幕を降ろした。しかし、 多紀郡の南西部一帯に残る酒井一族ゆかりの史跡や山城群が、いまも酒井氏の歴史を雄弁に語り伝えている。


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