篠山の山城を探索する-南矢代


南矢代城址



南出曲輪から犬飼方面を見る


JR福知山線の南八代駅西方に見える山上にあり、古市あたりを領した酒井党の惣領矢代酒井氏が築いたという。弘治三年(1557)、酒井氏吉は波多野孫四郎より感状を与えられ、永禄七年(1564)高仙寺への掟書にも越前守氏吉と署名している。氏吉の子主水介氏治が後を継ぎ、氏吉の弟右衛門兵衛が波賀野城主となった。『篠山領地志』にも「酒井主水営構ノ跡」とあり、 『丹波志』には主郭から連郭式に南に五郭を持つと記されている。



急坂を登る ・ 東出曲輪 ・ 主曲輪の堀切 ・ 堀切を見下ろす



段曲輪切岸と地蔵様 ・ 主郭へ ・ 北斜面より主郭を見上げる ・ 主郭西方の腰曲輪



東腰曲輪と切岸 ・ 南出曲輪の切岸 ・ 城址最南端の曲輪 ・ 南方より城址を見る


酒井党は八上城主波多野氏に仕え、各地を転戦し、右衛門兵衛は京都の合戦で討死したという。 天正のはじめ(1570年代)、明智光秀の丹波攻めが始まると主水介氏治は、吹城主の井関氏、 飛の山の渋谷氏らとともに明智軍に抗戦した。氏治は南矢代城の後方にそびえる松尾山上にも高仙寺城を築き、 酒井党の中心として活躍した。天正三年の籠城戦、天正五年の合戦に関する記録にお残り、激戦が展開されたようだ。 天正六年五月、氏治は明智軍の攻撃にさらされる大山城主長澤氏の救援に出兵したが、 傷をうけ居城に帰る途中で世を去ったと伝えられている。いまも、 松尾山上にある高仙寺址の一角に氏治の墓碑が静かに佇んでいる。
城址へは南矢代から、あるいは犬飼方向から登り道が続き、犬飼側が搦め手という。犬飼山麓の墓地より登っていくと、尾根上の出曲輪を思わせる平坦地があり、さらに尾根筋を登っていくと城址北端へとたどり着く。城址は北側高所に主郭を設け、山麓から続く主郭への急坂は天然の要害をなしている。主郭より南尾根に階段状に曲輪が続き、主郭直下の曲輪切岸には地蔵さまが祀られている。さらに曲輪が続き、堀切と土橋を越えると自然地形を残した広い曲輪が広がる。主郭の西方には堀切が切られ、その先の尾根には腰曲輪が築かれている。三段目曲輪の東側に虎口があり 、その位置から推せば犬飼方面が大手道のようにも思われる。
小さな城だが、堀切、切岸、曲輪群などコンパクトにまとまった城址である。南方に続く尾根先にも出曲輪が設けられ、その先の尾根からは犬飼から南矢代一帯が一望でき、油井・栗栖野・大沢城などの酒井党諸城との見事なネットワーク関係が実感される。少し遠いが、主郭北側より北西につづく尾根先の高仙寺城へと続く山道を歩くのも、 戦国時代を実感できるのではなかろうか。
高仙寺の一角に佇む主水介氏治の墓碑
・登城:2009年8月26日