低山歩こう記-畑


八百里山に登る

・2009年02月08日


佐々婆神社の秋祭 - 若宮に遷幸する山車と八百里山(20091004)

八百里山は篠山市街の北東にある畑地区のほぼ中央にあたる瀬利にあり、その北方には多紀連山の主峰である御嶽が 聳え立っている。むかし、神奈備山として崇敬された山だけに、その姿は御椀を伏せたような優美な形をしている。 八百里山の中腹にある平場は斎場であったといい、巨石を石室状に組んだ磐座跡(おそらく古墳跡であろう)が残って いる。磐座の後方には稲荷社が祀られているがいささか荒廃が進んでおり、 かつての神奈備山への尊敬の思いも次第に風化の一途をたどっているようだ。
八百里山の南山麓には法道仙人が開いたという願成就寺跡があり、神仏混交時代には畑地区の氏神佐々婆神社の別当寺であったというが、いまはかつての住職の墓石が残るばかりとなっている。また、稲荷神社の赤鳥居と並ぶように佇むお堂には、「お聖天さま」と呼ばれる瀬利歓喜天が祀られている。そして、山上にはかつて畑地区を支配した畑一族が築いた山城址が残っている。八百里山一帯は、古代から中世、そして現代に至るまでの様々な歴史模様を感じさせるところである。



登り口の瀬利歓喜天とお稲荷さんの鳥居 ・願成就寺の住職墓 ・尾根への道 ・尾根の竪堀 ・稲荷社前の古墳(磐座)

稲荷社を見上げる ・稲荷社下の石垣 ・稲荷社と八百里山(左後方) ・稲荷社の平地より畑集落を遠望 ・山上の城址へ



八百里山城は南北朝時代はじめの延元元年(1336)に畑能道が築城、以後、畑氏代々が居城とした。 戦国時代、信長の丹波攻めが起ると城主の畑牛之丞守能は波多野氏に属して抗戦、 天正七年(1579)五月初めの激戦で城は落ち、守能の長男守国二男能国は戦死したことが知られる。
山上に残る城址遺構は、多紀郡内では波多野氏が拠った八上城址につぐ規模のものである。 畑一族が盟友波多野氏とともに明智軍の丹波攻めに激しく抗戦した背景には、 その武勇もさることながら八百里城の要害堅固さも大きかったことが実感される。
南曲輪の虎口 ・十分な高さの切岸 ・矢竹の向こうに主郭の切岸 ・主郭東側に残る土塁跡 ・主郭北端の高櫓跡

主曲輪と西北曲輪を隔つ大堀切 ・西北曲輪と帯曲輪 ・竪堀を見上げる ・土居の内と八百里山(20090714) ・秋祭の御輿と八百里山


八百里山へはお稲荷さんの赤鳥居をくぐり、尾根に続く谷筋の道を登っていけばそのまま山腹の稲荷社へとたどり着くことができる。お稲荷さんの祠後方に続く尾根筋をひたすら登っていくと、小曲輪や竪堀があらわれ、やがて山上曲輪群南端に設けられた虎口へとたどり着く。
城址一帯は雑木が生い茂っているが、多紀郡屈指の山城といわれるだけになかなかの規模である。縄張は東西に長い 尾根筋に最高所の主郭を中心として曲輪跡が階段状に築かれ、南側に帯曲輪群を設け、東側の尾根には数条の竪堀が 落とされている。主曲輪群の西端には大堀切が切られ、その先の西尾根にも曲輪群が築かれている。保存状態は まずまずで、晩秋から冬にかけて登れば戦国山城を十分に堪能できるだろう。
八百里山のある畑地区は北方の三岳を舞台とした丹波修験道ゆかりの地であり、丹波守護細川氏の一族が築いた禅宗の 古刹太寧寺や後鳥羽上皇に関わる史跡なども残されている。八百里山登山のあと、古代から中世、そして現代に至 る様々な歴史の足跡を尋ね歩くのも楽しいところだ。


………
初夏の八百里城に登る   53次・八百里城跡