篠山の歴史・見処を訪ねる-大山宮


別れじの橋



追手神社方面から別れじの橋へ


本当に小さな橋、後方の山麓に大乗寺がある

平安時代の四大女流歌人といえば、紫式部、清少納言、赤染衛門、和泉式部の四人が指折られる。ほぼ、同時代を生きた四人だが、とくに紫式部と和泉式部は同年代であったようだ。篠山には四人のうち和泉式部に関する伝承が多い。西紀地区桑原の地名は和泉式部が桑を植えたことにちなむといい、毘沙門堂に和泉式部を祀る供養塔が立っている。また、丹南地区の北方にある大山宮の金井畑には、いまは崩れてなくなってしまったが和泉式部の子加弥の墓という五輪塔が立っていた。そして、大山宮にある「別れじの橋」は、和泉式部と子加弥が別れたところと伝えられている。
あるとき、丹後の文殊へ旅をしていた和泉式部は、その途中で大変すぐれた人に出会いその人の子どもを宿した。おおきな御腹となった式部は旅を続けることができなくなり、乳母友武のふるさとである大山宮で、かわいい女の子を産んだ。式部は女の子に「加祢」と名づけたが、乳母の友武に預けて京へと帰っていった。式部と女の子が泣きながら別れたところが、追入と大山宮の境の大乗寺川にかかる橋で「別れじの橋」と呼ばれるようになり、「鐘ヶ坂」は加祢と別れた坂ということから「加祢が坂」と呼ばれたという。「加祢」は美しい少女に成長し、ふたたび大山宮を訪れてきた式部と母子の対面をすると、母式部とともに京に上っていった。その後、加祢は「小式部の内侍」といわれて中宮彰子に仕え、小式部の詠んだ歌は母の式部とともに百人一首に採り上げられている。そして、関白藤原教通らに愛されて子もなしたが、二十代で早逝したという。
さて、和泉式部は天性の美貌と歌才に恵まれ、情熱的で自由奔放な女性であったようだ。藤原道長からは「浮かれ女」と呼ばれ、紫式部は「素行は良くないが、歌は素晴らしい」と評されている。なんとなく、現代の恋多き女性歌手を連想させる女性である。式部は最初の夫であった和泉守橘道貞との間に小式部内侍をもうけたが離婚、その後は数多くの恋愛遍歴を重ねたすえに藤原保昌と再婚、丹後守となった保昌に同行して丹後に下ったとされている。その後、式部の消息は史料上からうかがえない。京丹波町にある曹洞宗の寺院西岸寺境内には和泉式部の墓という五輪塔があり、長暦二年(1038)に亡くなったと伝えている。
式部の伝承は丹波に限らず、全国に存在しているが、これは式部が娘の死を悲しんで尼になったという京都誓願寺に関わるものという。誓願寺は和泉式部にちなむ世阿弥作の謡曲「誓願寺」でも知られ、境内の扇塚は式部を歌舞の菩薩として信仰した舞踏家の手になるものである。中世、誓願寺の縁起を説きながら全国行脚した女性たちによって、式部の伝説は各地に根付いていったのであろう。丹波に散在する式部伝説は、物語に出てくる聖権現、金山(かつて山上にあった大乗寺)が熊野修験道に関連することから、この地に住んでいた修験者、熊野比丘尼たちが熊野牛王の札を売り歩きながら式部伝説を広めていったものと考えられる。

写真:京都京極にある誓願寺の扇塚