篠山の歴史・見処を訪ねる-市原西山


城山稲荷神社



山茶花の大木で有名な西方寺から城山を見る




鳥居左側の台地はに小野原氏の居館跡か…  西方寺の山茶花越しに

戦国時代、八上城主波多野氏に属した木津城主小野原掃部の長男小野原采女が築いた城址にあることから、 城山稲荷と呼ばれる。永禄元年(1558)夏、一帯に大旱魃が起こったとき、城主小野原勝政は稲荷の神霊を 城内に勧請し社殿を建て領内の安寧と五穀豊穣を祈った。これが、城山稲荷の始まりと伝えられる。 波多野氏が滅亡した後、小野原勝政と一族は豊臣秀吉に属し、慶長二年(1597)朝鮮出兵を命じられた。 勝政らは城山稲荷に戦勝祈願して出陣したところ、神徳著しく無事に帰還できたという。それがあって、明治時代より戦前まで、 この稲荷は徴兵逃れの神様として信仰を集め多くの参拝者で賑わった。 山麓の鳥居から山上の稲荷社まで、赤い鳥居と石段が切れ目無く続き、登りきると意外に立派な本殿が鎮座している。 面白かったのは、本殿前の鳥居が黄塗りであったことだ。お稲荷さんの鳥居といえば、 京都の伏見稲荷を挙げるまでもなく朱色というのがお決まりだ。城山稲荷の鳥居の色は、お稲荷さんだけではなく 神社としても希少なものと思われる。
鳥居の黄色は、おそらく中国から伝わった「五行説」に由来するものであるようだ。 五行説は五行思想ともいい、古代中国に端を発した自然哲学で自然は木・火・土・金・水から成るとする。 木は青・火は赤・土は黄・金は白・水は黒(玄)の五色になぞらえられ、東西南北をそれぞれ青龍・白虎 ・朱雀・玄武が守護し、中央は黄麟(黄龍)が守護した。 狐には「其色中和(色が中和であること)。小前大後(前を小とし、後ろを大とする)。死則丘首(死すれば故郷の 丘に首す)」の「三徳」があるという。なかでも「色が中和であること」は、狐の色が黄色いことから 「土気」を象徴し、中央に位する尊い色を有するものとして徳の第一にあげられた。稲荷神社の鳥居が朱いのは、 火は土を生じるという『五行相生』によったたもの、すなわち「朱=火」が 「土徳=黄=狐」を生じさせるために赤く塗ったのである。そして、もっとも中央(最上階)に 位置する鳥居は最も尊い色である黄で塗ったものと考えられる。
難しいことは別のサイトに譲るとして、まことに珍しい光景ではある。また、本殿には飛行機のプロペラが奉納 されていたが、この稲荷に祈念して出征、無事帰還できた人が奉納したものであろうか。

【関連リンク: 五行説の論理伝承の狐観