篠山の歴史・見処を訪ねる-追入


大寶山大乗寺








大山宮に鎮座する追手神社の後方山麓にある寺院で、中世大山荘の熊野信仰の中心になった。寺伝によれば、 白鳳時代(645〜710)に法道仙人によって開かれたという。はじめは金山の山上にあり、十二坊が立ち並ぶ天台宗の名刹であった。 熊野修験道の丹波における拠点として続き、文安五年(1448)に起こった大地震で全壊、山上から現在地に再建された。
中世、大山村の国人領主であった中沢氏が保護を加え、最盛期には二十坊を数えるまでになった。 しかし、天正六年(1576)、丹波を攻めていた明智光秀は、氷上郡と多紀郡を分断するため金山に攻め寄せた。 このとき、大乗寺の僧兵も中沢氏とともに明智軍と戦ったが、敗れて寺域はことごとく焼失した。その後、慶長二年(1597)、 廻国僧快祐の勧進によって薬師堂と庫裏が再建され、真言宗高野山宝城院末となった。快祐は千日護摩供養を行い、 静かに入定したという。そして、その入定塚が楼門の手前の山裾にあって、「千日様」と呼ばれて篤い信仰を集めている。
江戸時代には大乗寺末が追手神社の神宮寺であった。付近には「別れじの橋」「加祢が坂」など、 大乗寺と関わりのあった修験者、熊野比丘尼が流布したらしい和泉式部伝説が分布、式部の墓も伝来している。

写真:快祐上人の入定塚を見る