篠山の歴史・見処を訪ねる-曽地中


四十九院址



篠山盆地は北方の多紀連山をはじめ、西方に松尾山・白髪岳、南方に愛宕山・槙ヶ峰、 そして東南方に弥十郎ヶ嶽などの山々が取り巻いている。それらの山々は信仰の地として多くの僧坊が建立され、 衆生の崇敬を集め、修験者が山を往来していた。 弥十郎ヶ嶽東側の山麓にあったという飛蔵山清水寺は、七間四方の大日堂や塔跡のある七堂伽藍の大寺で あったことが江戸時代の記録に残されている。そして、西山麓の曽地に四十九院と呼ばれる一大寺院群があった。 四十九院は固有の寺院をさすものではなく寺院群の総称で、弥十郎ヶ嶽に発して曽地川に注ぐ谷川の両側には 雛壇状の削平地、立派な石垣群が随処に残り、かつての繁栄のほどを偲ばせている。
 

登り口の看板(後方に弥十郎ヶ嶽) ・ 階段状の削平地 ・ 山腹には見事な石垣が累々と残る


段状に積まれた渓流沿いの石垣 ・ 御堂址か?壇状の石垣 ・ 削平地が連なる


階段状に続く僧坊址と石垣 ・ 山麓観音堂傍の五輪塔残片と磨耗した石仏


四十九院に関する確かな記録は残っていないが、そのはじめは、奈良時代に摂津から杓子峠、 胸坂を越えて丹波多紀郡にやってきた行基が、有志の願いにより高石山石窟寺を創建したことにあるらしい。 『多紀郡郷土史考』では、石窟寺の所在は判然としないが曽地の四十九院がその址であろうと考察している。 そして、石窟寺を中心に弥十郎ヶ嶽山麓から野々垣、堂山あたりにまで寺院が甍を並べるようになったようだ。 春日江に残る大般若教の奥書に四十九院の塔頭であったという竜泉寺の名が記され、 野々垣に安命寺址・中釈寺址・竜釈寺址、曽地に東谷山福山寺址・真如坊址・長福寺池坊址、畑井に地蔵寺址などの 旧寺名が伝えられている。このように弥十郎ヶ嶽西側には一大寺院が存在し僧侶が修行に努めていたことから 一帯は「僧地」と呼ばれ、のちに寺院が廃滅したことで現今の「曽地」に改められたという。
四十九院の廃滅に関しては、明智光秀の丹波攻めのときに焼亡してしまったとする伝説がある。天正三年、織田信長が明智光秀を大将として丹波攻めを開始すると、八上城主波多野秀治は氷上郡の赤井氏と結んでこれに抵抗した。波多野氏の抵抗に手を焼いた光秀は、天正七年、兵糧攻め作戦で八上城を締め上げていった。数日もすれば兵糧が切れ、籠城兵から脱出者があらわれるものと思っていたが一向にその気配はない。不思議に思った光秀が、周辺を探ったところ曽地村の寺々から修行僧が山伝いに八上城へ兵糧を運んでいるのを発見した。怒った光秀は兵を出して四十九院を攻めると堂宇に火を放ち、修行僧を捕らえ見せしめに首を次々に刎ねて殺害した。かくして、福山寺、真如坊、長福寺、 観音寺など四十九院の寺々はことごとく焼け落ちてしまったというものである。 そのときに首を切られ葬られた人々の霊を祀る首塚が、 いまも曽地奥の一角にひっそりと祀られている。
現在、曽地より弥十郎ヶ嶽に通じる登山道が整備されている。曽地川を渡って山麓に足を踏み入れると、 山田のようにも見える階段状の削平地があらわれる。削平地に踏み込むと切岸がきれいに切られ、 ところどころに石垣が見える。弥十郎ヶ嶽から流れてくる谷川にも、崩落が進んでいるものの石組みが確認できる。 さらに進んでいくと、谷川の両側に見事な石垣群があらわれ、十分な広さの削平地が階段状に連なっている。 仔細にみると庭園跡?、塔跡?と思われる地形もあり、間違いなく寺院址である。明智光秀の焼き討ちが史実か 否かは知りえないが、 後世の植林で光もまばらな山腹に寺院址遺構が累々と続く光景は鬼気迫るものがあった。
四十九院後方に聳える弥十郎ヶ岳山頂からの遠望
撮影:2009年10月10日