篠山の歴史・見処を訪ねる-28


土居の内








中世、土豪・国人領主らは住居の周囲に林や藪を植え、土塁・堀などを設けて敵の攻撃に備えた。それを堀の内、土居の内と呼び、 大渕のものは多紀郡内で唯一残った貴重なもので県の史跡に指定されている。土居の内は曽我部荘一帯を領した土豪畑氏が 室町時代に築いたもので、周囲を高さ1.8m、底幅約5mの土塁で囲み、南側に幅約7mの堀を穿ち、 東側は畑川を自然の堀とした中世居館址だ。「丹波志」には大渕古館として、「天正の頃、畑佐近允能綱同弟弾正守弘等住む」と 記されている。
畑氏は南北朝時代に丹波に移住してきたといい、八百里山に居城を築くと室町時代は守護細川氏に属して勢力を保った。やがて、波多野氏が 多紀郡一帯に勢力を伸張してくると、その麾下に属し所領を安堵されている。乱世になると大渕館北方の八百里城を要害として整備、 さらに、奥畑城にも一族を配するなどして多紀郡の有力領主に成長した。天正三年(1575)から織田信長の丹波攻めが開始されると、波多野氏に属して抗戦した。しかし、天正七年、波多野氏の拠る八上城が陥落、八百里城も明智軍の猛攻撃によって落城、守国・能国兄弟は戦死して一族は離散した。その後、畑氏一族は故郷に還住して現代に続き、土居の内にも子孫の方が現住されている。
土居の内は遠目から見ても際立った存在感のある土塁、近づくとわずかに水を残す堀、はるか後方には詰めの城があった八百里山が遠望される。北方部分が壊されていはいるが、その佇まいは、戦国時代の姿を彷彿とさせるのに十分なものがある。とはいえ、明智軍の徹底的な攻撃によって潰えさった畑氏の居館が、よく破壊もされずに残ったものと思わざるをえない。現地に立つたびに土居の内(大渕古館)が、現代に伝わった稀有といってもいい奇跡を感じる。