篠山の歴史・見処を訪ねる-23


高城市松稲荷神社








関が原の合戦後、亀岡から篠山に移封され八上城主となった前田主膳正茂勝の屋敷跡近くに鎮座する春日神社の境内に祀られている。篠山藩主は前田氏のあと藤井松平氏、形原松平氏、そして青山氏と続いた。
篠山四代藩主忠裕は家斉に仕えて幕府の老中を勤めた。家斉は相撲が大好きで、毎年春と夏には両国・回向院で上覧大相撲が催された。忠裕のお抱え力士も出場したが、成績は振るわず負け嫌いな忠裕は残念に思っていた。そのような文政三年(1820)の春、いつもの力士とは顔ぶれの違う一行が江戸篠山藩邸に現われた。高城市松を頭取とする相撲取りの一団で、その年の上覧大相撲はかれらの活躍で忠裕はおおいに面目を施したのであった。喜んだ忠裕はかれらに褒美を与えようとしたが、いつの間にかいなくなっていた。その後、一団は篠山領内のお稲荷さんたちであったことが分かり、忠裕はそれぞれに絵馬を奉納して感謝したという。
頭取高城市松を祀ったのが本稲荷社であり、化身となって大活躍したことにあやかろうと、勝利守護・合格成就の神として崇敬されている。同社は八上城址への主要登山口でもあり、参拝を済ましてのちに八上城址をめざしたい。