篠山の歴史・見処を訪ねる-02


武家屋敷群








慶長十四年(1609)、篠山城が完成すると同時に城下の町割りが行われた。外堀の内側には家老など重臣の屋敷が、外側の通りには藩主警護の役割を担う徒士衆の住居が建設された。これが御徒士町の始まりで、一帯は武家屋敷の面影をよく留め、江戸時代にタイムスリップをしたかのような錯覚を感じさせる。
住宅の間口は、はじめ八間(14.5m)程であったが、天保元年(1830)の火災によって大部分が焼失したのちの復興に際して、西側は約六尺(1.8m)後退させて再建したという。武家屋敷群の一角にある安間家住宅(有力公開)は、間口六間半×三間半、奥行き四間×二間半の入母屋造り、茅葺きの曲屋で、建築当初の形をよく残したものだ。同家は禄高十二石三人扶持の徒士住宅で、篠山市の指定文化財となっている。また、武家屋敷群の東南、「南の馬出」近くにある茅葺入母屋造りの小林家長屋門は、文化二年(1805)頃に藩主青山忠祐が老女小林千衛のために改築したもので、見晴らし窓を設け南に曲家を取り付けた独特な形式は必見である。
明治の廃藩置県によって、多くの篠山藩士が篠山から転出していったが、御徒士町の人々は転出する者が少なく、以後も手入れを怠らなかったことが、かつての武家屋敷の面影をよく今に伝えたのであろう。