家紋 熊野三社
熊野速玉大社/熊野本宮大社/那智大社


アイコン
別当職 /和田氏/鈴木氏


 紀伊半島の南斜面一帯の広大な山地は、神武東征の伝承以来熊野の聖域とされ、また祖神の静まる常世または黄泉の世界と考えられた。大和との唯一の交通路である熊野川の川口近くに新宮、はるか遡ったところに本宮があり、新宮の西南那智山に那智社があって、この三社を合わせて熊野三山または三熊野と呼んだ。
 三山の創建年代についてはそれぞれ伝承があり、いずれも明かではない。出雲国意宇郡にある熊野神社の祭神を出雲族がもたらしたのが本宮・新宮とされ、那智社は那智瀧(飛瀧権現という)の信仰から発したという。山岳信仰の霊地として古くから存在したことは確かで、奈良時代にすでに修験僧が入って仏教を伝え、平安時代の前期には早くも熊野の修験道が成立している。
 『延喜式』の神名帳によると、紀伊国牟婁郡のうちに熊野坐神社と熊野早玉神社とがあり、前者は名神大社、後者は大社となっている。熊野坐神社は本宮、熊野早玉神社は新宮と呼ばれる。三山のうち熊野那智神社はのちに熊野夫須美神社といったが、神名帳には見えず式外社である。だが、天平神護二年(766)本宮と新宮とに神封四戸が奉られている。那智社も那智瀧とともに古くから名のある神社であったといえる。
 三社の祭神は、本宮が家津御子神以下十三柱、新宮が熊野速玉神以下十二柱、那智社が家津御子神・熊野速玉神・熊野夫須美神以下十七柱とされている。ここでいう「以下十数柱」は、ほとんどがあとから付加されたものらしく、それらは神仏習合の影響を受けている。そして個々の神名よりも、それをそれぞれ本地である仏菩薩の名に配当した方に重点が置かれ、総称して熊野三所権現あるいは十二所権現などと呼ばれた。
 そのうえ、熊野を観音の浄土と考え、さらに末法思想のひろまりとともに熊野を阿弥陀如来の浄土とするようになって、浄土への憧れが次第に朝廷貴紳の間に沸き上がった。延喜七年(907)宇多法皇の熊野行幸があり、天慶三年(940)本宮と新宮に正一位の神階が贈られた(那智社ものちに正一位)。


熊野本宮大社 熊野速玉大社 熊野那智大社


 寛治四年(1090)白河上皇が行幸されたとき、権大僧都増誉が熊野三山検校に、執行僧長快が熊野山別当に初めて補せられた。それまで本宮と新宮には神主があったが、これより三山のことは検校・別当が主宰し、神主はそれに副うことになったのである。
 以後、別当を頭とする熊野神職らは有力な武力集団に成長し、かれらの隠然たる勢力は源平両氏が注目するところとなり、熊野別当湛増のとき、ついに源氏に荷担して、本来海上に力をもっていた平氏を滅ぼすことに功があった。その後も熊野水軍は、南海・内海において活躍し、南北朝時代には南海の海上勢力としても威を振るった。
 これより先、寛元四年(1246)後鳥羽天皇の皇子覚仁法親王が三山検校となってから親王もしくは摂関家の子弟がこれに任ずる例となり、のちさらに聖護院または三宝院門跡が兼職することとなった。しかし、検校は自然熊野を留守にすることが多く、三山のことはほとんど別当が専断した。別当の絶大な権力はあたかも国司・守護の如くであったという。
 戦国時代に至ると下剋上の風潮は熊野にも及び、別当の勢力が衰えて代わって別当の傍系という堀内氏が覇権を握り、いわゆる紀州の戦国大名となった。しかし、豊臣秀吉に抵抗して敗れ、所領没収された。関ヶ原の役後、浅野長政が和歌山に入封してから社領千石が寄せられ、以後これが踏襲された。
【三羽烏】


■熊野別当参考系図
  



●熊野神職・穂積鈴木氏 ●熊野神職・国造和田氏

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]