姓氏と家紋は本当に一体なのか?
人間の上昇志向/ 武家の家紋/ 血縁・地縁と家紋/ 家紋の推移



 本来の姓・氏と家紋との間には、何の関係もない。現在のいわゆる氏名・姓名と称する名字、苗字とは関係があると思われる。すなわち、苗字(名字)にからんだ絵解き的紋、例えば井伊氏の井文字紋、陶山氏の洲浜に山文字紋等々がわりあい多く存在するからだ。とはいえ、名字の多くは地名によっているから、地勢の似たところには同名も多い。したがって血縁等待った来ないにもかかわらず同苗ということで、ぞれにつられて同じ図案の紋が存在することもある。さらに他の多くの家紋は、守護神、土俗信仰、流行紋様や、創始者の信条・嗜好によっていることもある。名字と家紋の関係は、直接的にあると即断することは危険かもしれない。ただ、なんらかの相関関係は見い出せるといったところだろうか。


人間の上昇志向

 姓・氏と家紋を結び付ける誤解を植え付けるもととなったものは、江戸時代、武家の手になる武家を対象とした「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」のための家譜書き上げを担当した、当時の歴史家(学者・儒者を含む)の無知誤解にあったと考えられる。
 その誤解の淵源は、室町時代にかもされた大義名分論的源平の政権交代思想や、これに続く四大貴姓といわれる源・平・藤・橘重視の思想であろうか。この誤った思いこみにより、天下人を夢見る戦国大名が、次代の天下を希望的に占って、次つぎと氏を変えて行くこととなった。
 織田信長は、もともとは忌部氏であったらしいが、藤原氏といい、のちには平氏を称した。豊臣秀吉も自己の出自をいかにするか悩んで、藤原氏の猶子となりついには豊臣氏を新たに称した。徳川家康もまた、藤原を称し、のちに源氏に鞍替えしている。
 これは、盟神深湯(kugatati)に已に見られる姓氏詐称の古い先例のように、古代からの身分上昇を願う心理で、人間の体質ともいうべき、人類共通の貴種を尊重する心理と大きく関わっているといえよう。
 家紋もまた、かくあったものと推量して付会創作することとなる。したがって今まで用いてきた紋じるしは無視できず併用され、元来一家にひとつの家紋であるものが数えお増し、替紋が数個にもなる原因となった。
 現在の名字は、明治維新後の国民皆姓により名乗ったものが多い。それまで公に名字を称し、家紋を用いていた武士のように、家のシンボルとしての家紋を創作、用いるようになった。もっとも家紋を用い得たのは、資力のある、礼装の黒紋付羽織袴や据えるべき調度を持てる地主階層、町人たちに限られたが、り高い階層への上昇志向によって、一部に急速に広まっていたと考えられる。
 名字・家紋意義を限定して、これらを用い得たものは、元和偃武の前、江戸時代草創の頃までの、たとえ新規創作であったにしても、武家のみであったと考えるのが妥当なところだろう。したがって、主体的に戦うことのない卒族=足軽には、元来名字も家紋もなかった。
 公家はといえば、名字にあたるものは称号であり、家紋にあたるものは、江戸末期までは家の紋様であって、家紋はなかったと考えられる。


武家の家紋

 武家の家紋の由来を大別すれば
1)五布よりなる陣幕の染め分けの引両紋(新田氏・足利氏)・黄紫紅紋(三浦氏)
2)旗の文言・図案・神仏号・祈願文・神仏具紋・神使紋
3)旗の招きの依代の笠(少弐氏)・団扇(児玉党)・傘(名越氏)・扇紋(佐竹氏)
4)文様(鎧の直垂などの絞り、織文様からの転用)。目結(佐々木氏)・鱗(北条氏)・格子(遠山氏)・三つ柏(葛西氏)・梶の葉(諏訪氏)
などがある。はじめは、一族・一党の守護神来迎の依代の旗は、団結・勝利のシンボルでその一団に唯一個のものであった。後の鎌倉末期には分離独立をはかり、竹崎季長のように独自の旗を創作する者もでてきた。ついで戦乱の南北朝期は一族や党よりの独立、本家よりに分立期であった。このころに、多くの家紋が派生していったと考えられる。室町時代になった「見聞諸家紋」をみると、 自家の家紋に足利方の名残をとどめて二つ引両に付加合成したものもみえる。
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図:三つ柏/二つ引両


血縁・地縁と家紋

 身近にいる親類・知人をみてみると、思いがけないところにイトコ・ハトコがいたり、戦前まではある家の名子・子分であって、盆暮に挨拶にきていたものが、戦後の変動に、イトコと称している例がありはしないだろうか。あるいは、家の看板・屋号をことわりもなく遠い縁者が用いていたりしないだろうか。
 共同作業が宿命の百姓と、請判で一夜にして乞食ともなりかねない町人とでは、親族観、交際法は相当異なるが、零落すれば近き肉親も他人となり、赤の他人であっても成功すれば身近の縁者となったり、されたりすることはままあることだ。これにはそれぞれに尺度の相違がある。一つには貧富、ひとつには血統・家系があげられる。貧富は時の運と軽くみることができるが、金ではすぐに買えない家系が、やはり重くみれれるだろう。
 一代で富を築いたものが、名家と婚姻をする例は現代でも多い。これは金で血を買ったというべきもので、次の代に家系の上昇を願ってのことだろう。江戸時代の武家にも、より上層の家とは無縁のものが継ぐ例が多くあった。富か血統か、あるいは名跡か、何をより良しとするかは、それぞれの価値観によることはいうまでもない。
 人はえてして、自家に不都合なことは隠蔽したり、後に伝えなかったりし、手前勝手な修飾、捏造をする。有力な反証が内限り、のちには虚偽も含め主張、書き残されたものの言い分が、よほどの破綻がないかぎり、黙認されることとなる。一般に系図ほど当てにならないものはないといわれながらも、これに頼らざるを得ない。そしてその系図に合わせられた家紋も、無条件に信用はできない。いわゆる家紋の形状を伝える文字は変化しないが、図案は流動的である。複写の際に変化して正確には伝わっていないことの方が多いようだ。  戦後、家紋も思いつきや、紋帳によって好みの紋を用いている例もままあるようだ。僭用により江戸時代以降。ただの紋。通紋にまで下落した「桐紋」をあとあとの紋付の売買・貸借までを考えて紋としてつける嘆かわしい例もある。
 室町時代、一般庶民は名字を名乗ることを許されず、それはかなり厳しく守られていたようだ。これは良民の人工移動がない封鎖的な社会では、家系身分は自他ともに明白で、おのずと相互に規制され、身分の詐称、名字の僭称は不可能に近かったであろう。もっとも名字を名乗れるような土豪は、その地を支配し、勝手な姓・氏の仮冒変更もできたと思われる。平家の落人と称する集落や、木地屋集団の皇胤説もこれに当てはめられるものだ。かれらの有する偽文書も激動期の所産であることが多いようだ。
 家名のシンボルの家紋も例がいではない。庶流は嫡流を称したがり、家臣はともすれば主家の名字を冒す。戦国期より元和・寛永まで、立身を夢見て諸国を放浪し、主を変えた武士も多い。一方では名誉を重んじ、名家尊重の風が強く、武功の履歴とともに、召し抱えられやすかった名家の後胤を名乗ることも当然あった。あるいは同じ旗の下に戦った無名字の軽い身分の者でも、のちにはその旗の紋を家紋にし、その末流と称したことだろう。あるいは、その地方の大社を信仰し、その神紋を用い、同紋ゆえにその地の名家出身と称するものもあったことだろう。遠く伊勢出身と称する身元不明の北条早雲が後北条氏を称し、三つ鱗紋を用いたように、小形の早雲は数多くいたと考えられる。
 このように考えてくると、各地各国の家紋に分布を統計的に割り出したとしても、血縁的・歴史的な関連を裏づけてゆくことは、難しいようだ。
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図:五三の桐


家紋の推移

 戦国時代、個人の槍一筋の功名は。一城・一国の主ともなりえたので、一族の守護神の依代、一党の団結のシンボルの旗は、個々人に招かれて背旗となり、八方より目立つ立体化した指物となり、武功の商標へと変化する。一族一家の紋章というより、個人の紋章となったのである。
 ところが、この発刺とした旗指物のしるしは、元和偃武後、島原の乱を経て行き場を失い、多くはその身一代のものとして忘れられていった。江戸時代の「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」に「家の紋・旗の紋・幕の紋」と分類して尋ね、その結果ひとからげに家紋としたことにその原因がもとめららはしないだろうか。つまり、姓・氏と家紋は関係があるとするその編集者たちの悪しき先入観によって、家紋となるべき旗指物は消えてしまった。それとは別に、戦塵のなかに生まれた奔放な、例えば落合左平次の「鳥居強右衛門磔の図」や「五輪塔」「野ざらし」などは平時にふさわしくないとして、家紋とはなりえなかった。有名な斎藤道三や山内一豊の「立波紋」は一代限りとなって後を断ち、道三のは斎藤氏の代表紋である「なでしこ紋」に、一豊のは山内首藤氏の家紋とされる「一文字・三つ柏紋」になってしまった。山内氏は各地にある地形に由来するありふれた名字で、一豊が山内首藤氏の流れである確証はない。むしろ、江戸時代に、土佐山内氏に使者にたち、同紋使用をなじれらた萩毛利家の家臣山内氏のほうにその正当性をうらづける史料が伝わっている。牧野氏の有名な「五段梯子」の替紋、形原松平氏も「丸に利の字」は旗章より家紋となった数少ない例である。
 一方替わって、外様大名の大方は、前代よりの「桐紋」「菊紋」を用い。宗氏のように「菊・桐紋」が十万石格の獲得になにがしかの働きをしたものと思われるものもある。伊達・津軽・鍋島は牡丹紋を加えて家系を飾り、織田氏は信長の平氏出自伝説によって、誤った平家=蝶紋を用い、信長自身の旗の紋「永楽通宝」は消えている。
 橘氏出自の諸家が「橘・山吹水」を家紋とするのは、藤原氏出自の諸家が家紋は藤だと誤信して「上り藤・下がり藤の丸紋」を用いたのと同じように、橘氏は橘紋だったにちがいないとする誤解により、また有名な橘氏出自とする楠木氏の「菊水紋」に、 また橘諸兄の山吹を愛した故事にかけて「山吹水」を創作したものと考えられる。
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図:丸に橘

 現在各家が用いられる家紋は、それぞれに理由があり、また歴史的事実に由来するものも多いことだろう。各自の嗜好によって、さまざまに楽しみ用いることは一向に差し支えない。とはいえ、由緒正しいものは大切に扱いたいものだ。
・昭和53年新人物往来社刊:歴史百科日本姓氏事典掲載=加藤秀幸氏の論文から引用






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