久貝家/日下部家/久志本家/久世家/朽木家/久野家/久保家/窪田家/熊倉家/倉橋家/栗本家/久留家/久留島家/紅林家/黒川家[1][2]/黒田家/桑山家
家名 家紋 由緒 家名 家紋 由緒
久貝家 三つ巴
久貝氏の家譜は寛平年間、藤原兼寛が山城国乙訓郡を受領したことに始まっている。その乙訓の久貝村に子孫代々住んで久貝氏となったものと伝える。久貝正俊は家康に仕えて、大坂冬・夏の陣に「五」の字の使番として活躍。
日下部家 抱き柊
関ヶ原の戦の際、信州の上田攻城戦に、秀忠の下に旗奉行をつとめた日下部定好の家。
久世家 丸に並び鷹の羽
寛永三年広当が宗家を継いだとき、父広宣の遺領は二千五百石であった。うち五百石を弟広之に分けた。この広之が時代の脚光をあび、のちに下総関宿六万石の大名となった。
朽木家 隅立四つ目結
足利将軍義晴に忠節をつうした稙綱の孫も元綱に三人の子があり、長男宣綱が家を継ぎ知行六千三百余石。弟友綱、稙綱にそれぞれ二千余石、千百余石を分与した。稙綱はのちに累進し、土浦三万石の大名に出世した。その二男則綱が三千石の分知を受けている。
久野家 木瓜に三つ巴
藤原氏為憲流といい、遠州久野に住んで久野氏になった。はじめ今川氏に仕えたが、のち家康からの内命を受けてこれに属することになった。
久保家 丸に橘
久保勝正は織田信雄の麾下にあって、信雄が家康と手を結んでの小牧・長久手の戦いでは力闘した。それが遠い縁となって、関ヶ原の合戦後、信雄が没落したあと徳川家に召し出された。
窪田家 丸に三つ柏
清和源氏井上窪氏の族。小坂・時田・小室坂など転々と名字を変え、結局、正長が武田家に再仕して以後窪田を称した。孫の吉正のときに武田家が没落、家康に召されて麾下に入った。
熊倉家 丸に四つ石畳
藤原氏秀郷の末流といい、代々紀伊家の家臣。茂雅のとき、徳川家重が江戸城二の丸に入ったのにしたがって、子孫は旗本に名を連ねた。
倉橋家 三つ茗荷
倉橋部裔安倍氏の末裔とされる。本紋の「三つ茗荷」は、後鳥羽院の御代に盆に茗荷三個を並べてたてまつった故事にかかわるものという。
栗本家 丸に五つ星
六角に属する一支族で、近江の栗本に住んで、満信以降栗本氏と称した。孫の正俊は医をもって紀伊家に仕え、その子直方のとき、吉宗が将軍となるのに付いて奥医となった。
久留家 丸に違い矢羽根
いわゆる伊勢平氏関氏の後裔といい、正兼のとき久留氏へ養子に入った関係から、以後久留氏に変えたものという。三河へ出て、広忠時代から仕えた徳川譜代家である。
久留島家 折敷に縮み三文字
久留島氏は豊後盛一万四千石を領有していたが、清明の代に二人の弟にそれぞれ千石・五百石を分与して両旗本家を発足させた。
紅林家 丸に橘
橘氏の裔と伝える紅林吉永は、今川義元の麾下に名を連ねていたが、今川家没落後、徳川家に仕えた。
黒川家 丸に揚羽蝶
藤原秀郷の末といい、黒川盛治は織田信長の盛時、近江の伊賀郡のうち七ケ村を知行、なかの一村黒川の名から黒川氏となったという。
黒川家 丸に沢瀉
小野氏といい、また平氏の末ともいう。小田原開城後、高野山にのがれた北条氏房に従って行をともにした。関ヶ原の役に際して家康から召し出され、以後それに仕えた。
黒田家 丸に横木瓜
丹党加治氏族の中山氏から転じた。黒田直綱は父光綱が長年家康奥方の番を務めた縁から目をかけられ、知行千石を与えられた。
桑山家 桔梗
紀州和歌山四万石を領した桑山重晴のあと、嫡流一重、庶流元晴ともに大名として両立したがのちに両家とも断絶。その間に分家したものが数家あり、旗本として残った。