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朽木氏
四つ目結
(宇多源氏佐々木氏流)


 佐々木氏の一族。信綱の次男忠信は高島郡田中郷を与えられ高島氏を名乗っていた。その子頼綱、さらにその子義綱の代になってはじめて朽木氏を称するようになった。
 朽木庄は、滋賀県高島郡にある山間の荘園で、俗に朽木谷といわれ、安曇川上流の渓谷に沿う谷盆地となり、京都にも近いということと、若狭と京都を結ぶ交通路にあたっていたこともあり、早くから開け、交通上の要衝としても重視されていたところだ。
 朽木氏は朽木谷一帯を抑え、佐々木氏一族として重きをなした。1528年三好元長が京都に乱入した時、足利将軍義晴は朽木谷に逃れ、そのころの当主稙綱は義晴を厚遇した。その功によって稙綱はのち申次七人衆の一人に数えられることになった。さらに1551年にも将軍義輝が戦乱を避けて朽木谷に逃れるということがあり、山間盆地という地勢が将軍の避難所としての条件を持っていたことを示している。  朽木氏の歴代にあっては、稙綱と晴綱および元綱が特筆される存在で、晴綱の弟たちも将軍家に多く仕えている。たとえば藤綱は後部屋衆に、成綱は告衆番衆に、輝孝は後部屋衆として名がみえ、足利将軍家との関係の深さを示している。
 元綱は、はじめ六角氏に仕え、次いで朝倉氏と結び、さらに足利義昭、次いで織田信長と転々としているが、近江という政治情勢の変化の激しい地方の小戦国大名としては当然の身の処し方だったといえよう。元綱はさらに豊臣秀吉、徳川家康に仕えている。関ヶ原の合戦では、最初西軍に属し途中で東軍に通じている。その結果、減封措置ではあったが近江高島郡九千石を安堵されている。
 しかし、江戸時代に入って三男稙綱が若年寄にまで出世し、下野鹿沼で二万石の大名となった。この稙綱の系統は、その後丹波国福知山に転じ、明治維新を迎えた。

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■参考略系図



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