小山氏
二つ巴横
(藤原氏秀郷流)


 下野の小山氏の場合”こやま”と読まず”おやま”と読む。下野押領使藤原秀郷の後裔で藤原姓を称している。
 つまり秀郷九世の孫太田行政の子政光が下野大掾となり、下野国都賀郡小山庄に居住し、小山四郎を称したのがはじまりである。小山庄というのは、都賀郡から寒川郡・結城郡にまでわたり上六十六郷・下三十六郷といわれる一万余町歩の広大な面積を持ち、そこを基盤にして成長した東国きっての名族だ。小山氏を秀郷流藤原氏の嫡流ではなかったかと推定する説もあるほどだ。
 政光の嫡男朝政が小山氏を継ぎ、弟の宗政が長沼氏の。朝光が結城氏の祖となり、長沼氏から分かれて皆川氏が出るなど。小山氏はそれら一族の中心であった。特に政光から分立した庶子家長沼氏・結城氏は、小山氏と合わせて小山三家の名で呼ばれたいた。
 小山氏は代々下野国権大介職および押領使を世襲し、朝政は下野国日向野郷の地頭職に補任され、鎌倉時代を通じて下野守護は一貫して小山氏だった。つまり、下野国司と守護を兼ね、さらに朝政は常陸・播磨にも地頭職を、正治元年には播磨守護職をも獲得しているのである。幕府においても重きをなしたのは当然であった。
 ところが、南北朝時代になると、義政は南朝方として宇都宮国綱と戦い、ついに永徳二年に自殺、次いで子の若犬丸も奥州に逃れ、鎌倉公方足利氏満と白河に戦うが敗れて、所在不明となり嫡流としての小山氏はここで滅亡した。
 ところが、足利氏満は関東の名族小山氏の滅亡を惜しみ、同族結城基光の次男泰朝を迎えて小山氏を継がせるところとなった。しかし、もはや鎌倉時代のような威勢は失われていたのである。この段階で小山氏が滅んでいったのは、同族的結合があまり強固でなかったことを示している。つまり、義政攻伐に当たって、上杉氏は白旗一揆・平一揆などの連合を有効に駆使しえたのに対して、小山氏を中心とする同族の国人領主クラスの連合が思うように進まなかったというこ点である。
 以後、小山氏は、宇都宮・那須・成田・結城といったようなクラスとの力の均衡の上に、領国経営を維持していったのである。
 こうして戦国期には秀綱が登場し、彼は後北条氏の麾下に属することによって家の保全を図った。しかし、天正十八年、後北条氏の滅亡とともに所領を没収されてしまった。秀綱の子政種は早世し、高綱は戦死、結局秀広が後を継いだが、実質上は、小田原開城の時点で、関東の名族小山氏は滅亡したのである。

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■参考略系図




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