朝倉氏
三つ盛木瓜(日下部氏流)
    
 朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。はじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し、はじめて朝倉氏を称したという。
 下って南北朝時代に広景が、足利方の斯波高経の被官となり、越前で戦功を挙げ、坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代となって活躍している。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていった。
 その後孝景が現われ、斯波氏の内紛に乗じて、越前守護となり、一乗谷に城を構えて戦国大名化に成功した。孝景は応仁の乱では西軍に加わり、文明十三年、斯波氏に代わって越前守護となった。一乗谷城にはそれから氏景・貞景・孝景・義景の五代が住み、越前に戦国大名領国制を展開することになる。初代の孝景が有名な「朝倉敏景十七ヶ条」の制定者で、朝倉氏中興の祖というか、戦国朝倉氏の期ぞを築いた人物である。
 初代孝景の子教景は宗滴と号し、五代義景にいたるまで後見として活躍し、加賀・能登・越中の一向一揆と戦うなど、朝倉五代を身をもって生き抜いた人物である。七十九歳という高齢でなおかつ合戦に参加したという話は有名で、朝倉氏もこの宗滴が弘治元年に死んでからは、歯止めを失った義景の、奢りをきわめた生活が始まり、衰えを見せるようになる。宗滴教景が話したことを家臣が書き留めた「朝倉宗滴話記」は、家訓としても名高い。
 義景は京風の文化を一乗谷に移し、足利義昭も一時その庇護受けたほどで、一乗谷文化あるいは朝倉文化の名で山口の大内文化などとともに著名だ。
 元亀元年、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めた。ところが信長の妹を嫁がせ同盟関係を結んでいたはずの北近江浅井長政が信長に反旗を翻したのである。ここにおいて浅井・朝倉は、信長の前に共同の敵として立ち現われることになった。この年六月、近江の姉川を挟んでいわゆる姉川の合戦が行われ、義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしたが敗北。
 天正元年、信長は古谷に来ていた義景の浅井援兵を追って越前に侵入し、ついに義景は自害した。越前に勢力を誇った朝倉氏も、こうして織田信長によって滅ぼされてしまった。

■略系図