松平氏
 清和源氏の一族新田義重の末子義季が上野国新田郡世良田村徳川郷に住み徳川氏を称し、その後頼氏--教氏--家時--満義--政義--親季--有親と続き親氏に至ったとされている。その親氏が徳阿弥という時宗の僧となって諸国をめぐるうち、三河国松平郷の土豪松平太郎佐衛門信重の娘婿となり、これが松平の初代に数えられるという。
この松平=徳川系図が家康以後の創作であり、まったく信じることのできないものであることは定説となっている。松平氏は親氏以前のことは不明であるとしかいうしかないようだ。初代親氏、二代泰親の頃は明確ではなく、三代信光の時代からかなりはっきりしてくる。信光には48人の子供があったといわれ、庶子を各地に分封し、松平宗家を中心にした同族団結合が形成されていったようだ。
 松平氏が西三河の平定をほぼ終えるのは五代長親のころで、その子信忠の時代に一時後退をみせるが、清康に至って、戦国大名松平氏としての最盛期を迎えた。


■三代松平信光から分かれた松平一族
■四代松平親忠以降分かれた松平一族

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