篠山の山城を探索する-東木之部


木之部城址



南方より城址(中央山上)を遠望


国道176号線の長安寺交差点を篠山方面に走ると、かつての西紀町の中心であった宮田に至る。城址はその途中にある 加茂神社東方の小山上にあり、ちょうどかつての宮田荘と大山荘の境目に位置している。木之部城と街道を挟む北方の山上にも城址があり、 さらに、木之部峠を越えてすぐのところに内場山城址がある。
中世、大山荘の地頭中沢氏が宮田荘に乱入したとき、木之部がその侵入路となり一帯は被害に遭ったものと思われ、 戦略的にも西方への防御の面からも重要なところであった。築城主は不明だが、 波多野氏に属して宮田を領していたという山名氏が境目を守る城として築いたものではなかろうか。


南尾根の祠 ・ 南側の帯曲輪 ・ 東斜面の竪堀 ・ 東尾根先の段構


北側の帯曲輪 ・ 主郭切岸と帯曲輪 ・ 主郭虎口 ・ 段状に連なる西の曲輪


西帯曲輪と主郭 ・ 木之部北城址を遠望 ・ 西北に設けられた腰曲輪 ・ 西尾根から城址を見る


縄張は主郭を中心として周囲を帯曲輪が取り巻き、東方に竪堀が切られ、西方には小曲輪と堀切道が築かれている。 北方を通る街道を扼する城だけに北西部への防御を意識した構造になっている。みたところ小さな城だが、往時は東方の 尾根、西方の尾根、南の尾根に自然地形を利用した曲輪が存在していたように思われる。 いまも、南尾根には小祠が祀られ、曲輪であったことをうかがわせている。


城址一帯は潅木が茂っているが北方に街道を見下ろし、北方山上の木之部北城址、北西の内場山城址も指呼の関係にある。 主郭の切岸は二メートル近くあり、帯曲輪の切岸や東方に切られた竪堀遺構も明確で保存状態は悪くない。 南尾根の祠より藪漕ぎで城址に至るが、西方山麓より城址西端に通じる山道がかつての大手道であったようだ。
・登城:2009年12月14日
図は国土地理院の二万五千分の一の地図をベースに『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』 掲載図を組み合わせて作成しました。