篠山の山城を探索する-火打岩字宝塔山


福泉寺城址



御嶽中腹より小金ヶ嶽から城址方向を遠望


福泉寺城址は多紀連山三岳のうち、東方に聳える小金ヶ嶽の南、およそ七合目あたりに存在した中世山城である。城址のある多紀連山は、かつて丹波修験道(三岳修験道)の山として栄え、盛時は修験道の本山である大和吉野の大峰山より賑わった。三岳の主峰御嶽の南に大岳寺が開創されたのち、小金ヶ嶽の南山腹、ちょうど大岳寺に呼応する位置に福泉寺が建立された。その後、観音堂や僧坊なども建立され、 奥の院の多宝塔には密教における最高仏である大日如来以下四体の裳掛像が安置されたという。
三岳修験道の繁栄振りに危機感を抱いた大峰山は、三岳に本山への参拝を求めた。ところが三岳はそれに応じなかったため、文明十四年(1482)、大峰の吉野蔵王堂の坊主主鬼は山伏三百人を率いて遠く丹波まで攻め寄せてきた。三岳修験道の僧兵(山伏)たちは、新庄の宮の谷で大峰勢を迎え撃ったが敗戦、御嶽の大岳寺をはじめ、 福泉寺など三嶽修験道の寺々は大峰勢によって焼き払われてしまったのである。


城址への分岐 ・ 尾根から南斜面に曲輪が続く ・ 尾根側の切岸 ・ 北東部の帯曲輪


主郭切岸と北の曲輪 ・ 主郭から御嶽を見る ・ 北の曲輪から堀切を見る ・ 曲輪を南北に区画する大堀切 ・ 南曲輪北端の土塁


城址南端の珪石露天掘の跡 ・ 竪堀状の遺構 ・ 東南端の曲輪 ・ 東南曲輪から福泉址へ


福泉寺址には、平坦地が散在、本堂跡の礎石群があり、奥の院の多宝塔址の礎石であろう印の入った石が残っている。さらに、大峰の来襲に備えて築いた土塁、掘割なども見られる。福泉寺城は大峰勢の来襲に備えて福泉寺の僧兵(山伏)によって築かれたものと思われるが、堀切や腰曲輪など戦国時代に改修の手が入ったようにも見える。城址は福泉寺址西方の谷を囲むように伸びる西方尾根に築かれ、北端部を最高所として南斜面に階段状に曲輪が築かれ、谷を隔てた西方に大岳寺が遠望できる。
縄張は中央部の見事な大堀切によって南北に区画され、最南端部は深さ十メートル以上もある丹波硅石の露天採掘の跡が、まるで大堀切のような姿を見せている。福泉寺址と城址とを結ぶ山腹には、僧坊址であろう平坦地があり井戸址も残っている。池跡を思わせる擂鉢状の大きな穴もあり、どこかに排水溝があるのだろうか?その水のない様子は不思議な光景である。



築城年代を裏付ける確実な資料は伝来していないが、大峰山との緊張状態から築かれ、福泉寺から福泉寺城、さらに西方の大岳寺までが連携して南方から攻めてくるであろう大峰勢に備えた。おそらく、福泉寺と福泉寺城とは居館と詰めの城という関係であったのだろう。福泉寺城の存在には福泉寺・大岳寺など三岳修験道の寺院群との関係が重要であり、三岳修験道が壊滅したのちはその存在意義も失われて捨て置かれていたと思われる。やがて、戦国時代に至って在地勢力によって修築されたものが現在残る遺構で、三岳南部の八百里城を本城として一帯を支配した畑氏の手に係ったのではなかろうか。あるいは、北方の本郷界隈を領していた細見氏との連携を強化する意図から修築されたとも思われるが、 実際のところは不詳というしかない。
・登城:2009年12月08日
図は国土地理院の二万五千分の一の地図をベースに『戦国・織豊期城郭論―丹波国八上城遺跡群に関する総合研究』 掲載図を組み合わせて作成しました。