篠山の山城を探索する-真南条足見寺


足見寺城址



デカンショ街道から城址を遠望


足見寺城は中山別堡(塁)とも呼ばれ、波多野氏の重臣であった河村氏が築いたものと伝えられている。城址の遺構は篠山から姫路方面にデカンショ街道を走っていくと、舞鶴道の手間の真南条中集落の北方にある足見寺山上にある。真南条には真南条上城址・館山城址があり、いずれも河村氏が築いたたものという。三城は播磨から丹波篠山に通じた街道を押える位置を占め、その東方には河村氏と同じく波多野氏の重臣であった平林氏の谷山城祉がある。河村氏は平林氏と連携しながら、 八上城西方の守りに任じていたのであろう。


城主の河村氏は波多野氏の一族で、応仁の乱ののち丹波に入部した波多野清秀らとともに来住した武士という。 たしかに『尊卑分脈』などの中世武家系図を見ると、藤原秀郷流波多野氏の分かれとして松田・沼田・広沢・河村氏ら がみえている。出自の真偽はおくとして、大永四年(1524)、波多野備前守の有力武将の一人河村善兵衛の文書が 知られ、ついで弘治三年(1557)、龍蔵寺僧徒の争論に際して河村竹千代が裁判のすえに寺の定法を制定している。 明智光秀の丹波攻めに抗戦した河村紀伊守は、竹千代の後身とみられている。


登り口の金毘羅さん ・ 南尾根の自然地形の曲輪 ・ 南尾根東の竪堀 ・ 尾根部北端の堀切


南曲輪の北側土塁 ・ 土橋と堀切 ・ 見事な大堀切 ・ 北曲輪と土塁(奥側)


階段状の曲輪 ・ 北細尾根から見た主郭北端切岸と直下の堀切 ・ 細尾根の堀切 ・ 北端曲輪の虎口?


城址へは西方の山麓にある願証寺裏手の溜池から金毘羅社に分け入り、そこから尾根をひた登れば迷うことなく最南端の曲輪にたどり着ける。縄張は山頂の主郭を中心とした主曲輪・南尾根・北尾根の三つの曲輪に区画される。まず、南尾根は自然地形を利用した細長い曲輪と山腹に堀切・小曲輪が築かれ、北西の尾根に設けられた出曲輪とは長い土橋で結ばれ、最北端の曲輪東側には土塁、西側には虎口状の遺構がある。また、尾根の要所には堀切が切られている。そして、主曲輪部は主郭の北方を土塁でまき、南西に曲輪を階段状に設け、この城最大の見所である大堀切を経て、さらに曲輪が築かれている。 そして、主郭東方の尾根にも掘切と小曲輪が築かれている。
城址は雑木に覆われているが木の間越しにデカンショ街道が見下ろせ、真南条上城・館山城とは指呼の間である。 城址の南山麓に真南条館址といわれる一角があり、土塁と堀の一部が残存している。山上の地形を巧みに利用して 築かれた足見寺城祉は、その規模の大きさから推して河村氏の主城であったと思われる。堀切・曲輪・土塁など遺構の保存状態はよく、 登りの藪コギさえ厭わなければ戦国山城を十分に楽しめるところではある。
そもそも波多野氏は丹波では新参者であり、多紀郡南西部には鎌倉以来の御家人の系譜を誇る酒井一族が割拠していた。酒井氏は大山の中沢氏らとともに波多野氏とは対立関係となり、波多野氏は酒井一族に対する固めとして河村氏・平林氏らを西方に配したものと思われる。その後、酒井一族が波多野氏に帰服すると、最西端の酒井党→河村氏→平林氏とつなぐ防衛陣を形成したものと思われる。明智光秀の丹波攻めが起こると河村紀伊守は波多野氏の重臣としてこれに抗戦、最期は八上に籠って戦死したといわれている。八上落城後における河村氏の動向は知れないが、 真南条上城の主郭には河村紀伊守の顕彰碑が建立され、いまも地元の人によって手あつく祀られている。
・山麓の真南条館土塁と堀址
・登城:2009年10月30日