篠山の山城を探索する-西吹


山上(西吹)城址



北方から城址を遠望



二村神社参道 ・ 主郭へ ・ 主郭の削平地(後世の改変か) ・ 主郭の切岸



横堀状の帯曲輪 ・ 曲輪と切岸 ・ 館跡にも見える削平地 ・ 佐渡守正存の供養塚


旧丹南町西吹の中央にある小山にあり、二村神社参道の右手一帯が城址である。『丹波志』などによれば、文亀・享禄のころ(十六世紀のはじめ)難波佐渡守正存とその子甚存が拠ったという。戦国時代、波多野氏が台頭する以前の丹波は、八木城主内藤氏が丹波守護細川氏の守護代として権力を振るい、被官難波氏が多紀郡の奉行として八上に居を構えていた。やがて細川氏に内訌が起こると、内藤氏に代わって波多野氏が勢力を拡大、ついには多紀一帯を支配するようになった。
波多野氏の台頭で八上を失った難波氏は、西吹に新たな居を構えると波多野氏に属するようになったと考えられる。 しかし、佐渡守は年不詳の十一月、西国で戦死し、その首塚が居宅の西北にあるといい、甚存の子伝兵衛は 備中高松城主清水宗治に属し、天正十年(1582)、宗治とともに自害したという。一本系図によれば、 清水宗治は田使首の後裔という備中難波氏の一族で、多紀難波氏も同族関係にあったのかもしれない。伝兵衛の死後、 家僕がその首をもって多紀の山上城に帰りこれを葬ったという。それぞれの話の真偽は、いまとなっては知るすべも ないが、江戸時代に建立された佐渡守正存の供養塚が城址東山麓に祀られている。
さて、城址は二村神社本殿北側にあり、主郭を中心として西方に帯曲輪、南東尾根に削平地が数段確認でき切岸も残っている。また、東斜面に竪堀と思われる地形があり、東山麓は館跡と思われる削平地が存在している。二村神社を含めて山全体が城域のようにもみえ、縄張りの全容は判然としない。難波氏の歴史と同様、城の歴史・実態も不詳というしかないようだ。
・登城:2009年5月29日 → 7月14日