篠山の山城を探索する-県守字片廻し


口県守城址



洞光寺参道方面から城址を遠望(2009年07月09日)



登り口 ・ 城址南端に到着 ・ 虎口



登り土塁 ・ 明確な切岸 ・ 最北端の曲輪 ・ 北尾根を穿つ堀切



堀切から曲輪を見る ・ 階段状に続く曲輪 ・ 東帯曲輪から曲輪を見上げる


口県守館は東本荘にある丹波最大級の前方後円墳「車塚古墳」の北西にある尾根先にあり、荒木氏の支城の一つであった。また、北西の尾根続きの山上には市谷城址があり、荒木氏は細工所城を本城に、南方面を貝田城、栃梨城で固め、西方面を市谷城、口県守館で固めたようだ。城址(館跡)は東本荘から県守に入る境目に位置し、篠山の古刹宝鏡山洞光寺参道の右手方向に見えている。城主は荒木周防守と伝えられているが詳細は不明である。
城址へは南西山麓にある溜め池から取り付き、急斜面に残る踏み跡らしき道?を登った。南端の虎口を越えると、三十メートル四方の広さの南曲輪である。そこから、北方向へ二の曲輪、主郭が連なる。切岸も明確で保存状態も良好、二の曲輪から主郭へは登り土塁が築かれ、主郭の中央には櫓台と思われる土盛がある。そして、主郭北側にはその先の尾根を穿つ堀切が切られている。曲輪の削平も丁寧で、東斜面には腰曲輪が設けられている。全体として小ぶりな縄張りだが、北西尾根続きにある市谷城はもとより、細工所城、栃梨城と連携しながら、東本荘一帯ににらみを利かしていたのではなかろうか。
荒木氏綱は波多野氏の有力武将として明智光秀に抵抗、天正六年、激戦を演じてのち光秀に降伏した。氏綱の勇を惜しんだ信長は光秀の家来になるよう薦めたというが、氏綱は仕官をことわり東本荘の館に隠退したという。その東本荘の館とは、ここ口県守館ではなかったのだろうか。
・登城:2009年2月14日