篠山の山城を探索する-木津


木津城址



住吉神社の鳥居越しに城山を見る(2008年10月11日)


戦国時代、今田一帯を領していた小野原氏が築いた城で、東南の大手山麓には居館址も残る。木津は丹波と 播磨の境目にあたり、城の東には東条川が流れ、城山の西下は播磨との国境である。城主の小野原氏は八上城主 波多野氏に属し、木津城を本城として、市原城・小野原城などを築き、丹波と播磨の国境守備を担っていたようだ。 『篠山領地誌』によれば、「小野原掃部の城跡が木津の北西の山にあり、縦二十間、横十五間、南に向かって通路がある。 掃部は小野原の領主であるが、その詳しいことを知る者はいない」とあり、。小野原掃部が木津城に拠り、 子の采女が市原城に拠っていた。そして、一族には小野原右京勝政、六郎次郎勝繁。六郎左衛門勝好らがおり、 天正三年(1575)の亀山城の戦、翌四年の桂川の戦いに波多野方として出陣、活躍したという。



登り道 ・ 竪堀状の地形 ・ 中腹から住吉神社方面を見る ・ 主郭の切岸



主郭から加東市方面を見る ・ 四等三角点 ・ 西尾根の堀切 ・ 主郭に続く登り土塁 ・ 主曲輪南端の虎口



虎口下方の堀切と土橋 ・ 南尾根の曲輪状の地形 ・ 下館北側の横堀 ・ 下館切岸と城址


天正七年、八上城が落ち波多野氏が滅亡すると、小野原一族は豊臣秀吉に仕えた。 そして、文禄・慶長の役には朝鮮に出陣したという。そして、朝鮮で戦死したとも、凱旋したとも伝えられるが、 その後の小野原一族の事歴は遥として知れなくなる。すでに、江戸時代のはじめにおいて、小野原一族のことは不明と なっていたようで、地元にも伝わるところはない。まことに奇妙な話だが、小野原一帯に残る城址群が かつて小野原氏が存在したことを語るばかりである。
城址へは木津の住吉神社を起点に、神社北西にある下館跡を経て山上にある縄張りを目指した。登城口は雑草が 生い茂っていたが、山麓に分け入ると踏み固められた道があり、中腹まで登ると竪堀、出曲輪と思しき地形が あらわれる。さらに、急傾斜の尾根を登りきると主曲輪群の南西切岸にたどり着く。主曲輪群はそこそこの広さで、 山上の主郭を中心に、北東尾根、北西尾根に出曲輪を配し、南曲輪の東側に小さな出曲輪が設けられている。そして、 南曲輪南端に虎口、南に出曲輪が築かれている。堀切は虎口の直下と北西尾根の曲輪に切られており、播磨国境方面への 守りを意識した縄張りである。城址は雑木に覆われ探索も一苦労だが、主郭より西を見ると播磨境が眼下にあった。
帰路は本来の大手道である南尾根を下っていったが、途中でブッシュに阻まれ、登って来た道に引き返す結果となった。 丹波の小規模な山城は、そのほとんどが整備されることなく荒れるに任されている。 山林の所有権や予算面などに難しい面があることは承知しているが、残念なことはである。
・南尾根で見つけた笹百合の花
・登城:2009年7月2日