篠山の山城を探索する-大上字東平


大上東平城址



土居の内から城址を遠望(2006年12月10日)



城址へ ・ 竪堀あるいは堀切を思わせる地形 ・ 堀切南尾根の城址遺構?



北尾根への土橋 ・ 北曲輪の堀切 ・ 主郭切岸と腰曲輪



意外に広い曲輪 ・ 東側の段状曲輪 ・ 土居の内の堀と城址(20070616)


 
谷を隔ててすぐの東側の尾根先には西ノ山城があり、南につづく尾根の先端部分は谷を経て明智光秀が八上城攻めの本陣とした般若寺城址がある。そして、般若寺城南を流れる篠山川の向うには八上城址のある高城山がそびえている。また一帯には八百里城、奥畑城、武路城、武曽山城など畑氏系の山城が集中し、西側を流れる畑川西岸の大淵には畑氏の居館址「土居の内」がある。これらのことから考えると、畑氏一族の城砦であったと思われるが詳細は分からない。
城址は堀切道を思わせる谷筋で北と南に分かれている。いずれも雑木が生い茂っているが、遺構として分かりやすいのは北曲輪である。山頂に主郭を置き、東側に段曲輪、北から西にかけて腰曲輪、南尾根と北尾根に堀切が切られている。そして、南の尾根には自然地形に近いが曲輪と思われる削平地がある。一方、南曲輪とは土橋で結ばれているものの、ほとんど自然地形のままでアンテナ設備のある削平地が主郭のようだ。主郭にいたる尾根の途中には虎口を思わせる地形があり、石積みも確認できるが果たして当時の遺構かどうか迷うところだ。主郭南側の切岸を下ると段状に曲輪が確認できるが、これも自然地形に近い。北曲輪と南曲輪を合せると相当な規模の城址になるが、遺構の見極めとどこまでを城域とするのか判断に苦しむものがある。さらに、城の規模から考えて、南北を分ける堀切道も堀切であったのか、近世に山道としてつくられたものか迷うところである。
戦国時代の山城は近代のように常に城として存在したものではなく、事あるごとに手を入れ城砦として使用した。 とくに土豪クラスの武士が作った小規模なものは、一端事がおさまると捨ておかれてしまうという例が多かった。 東平城も大渕の居館東方を守る城砦として畑氏が築き、遺構の残存状態から北曲輪群が主体で、 南曲輪群はのちに付け加えられたものであろう。いずれにしても、一帯に点在する畑一族系の城砦の一つとして 機能したことは間違いないようだ。
・登城:2009年4月18日