篠山の山城を探索する-奥畑


奥畑城址



多紀アルプスを後方に見る奥畑集落の小山に城址はある



西曲輪下の堀切 ・ 西尾根を遮断する大堀切 ・ 西端曲輪の切岸



十分な高さの切岸 ・ 曲輪の石垣跡? ・ 西曲輪西端の土塁跡



主郭を見上げる ・ 崩落した虎口 ・ 西尾根大堀切から伸びる竪堀 ・ 下りは意外なところへ降り立った


奥畑城は茶臼山城ともよばれ、南北朝時代に畑荘に移住、八百里城を築いた畑氏が支城として築いたと 伝えられている。丹波守護に任じた山名氏が明徳の乱で没落したのち、 応永の乱が起こると再起を期した山名氏の残党が奪取して立て籠もった城としても知られる。
城址は奥畑集落後方にある小山の東方に突き出た尾根上にあり、見たところまことに小ぶりなものだ。 応永の乱で山名残党が拠った城が、多紀郡内の要害に数えられる八百里城ではなく、奥畑城であったというのは いささか首をひねらざるをえない。細川氏に味方した畑氏の抵抗にあった結果であろうが、どう贔屓目にみても はなから勝ち目はなさそうだ。事実、山名残党は畑氏に敗れると但馬に逃れ、その地で討たれている。
城址へは南山麓から尾根に取り付き、登ること数十分で西曲輪にたどりつける。登ってみても小ぶりな 縄張りの城址だが、西尾根を断つ堀切、西曲輪の切岸は見応えがある。さらに、東尾根の主郭を取り巻く帯曲輪、 東南に連なる小曲輪群など、それなりの防御力を感じさせる。虎口は主郭の南側にあったというが、 いまは大きく崩落して往時の構えを想像することはできない。いま、残っている縄張りは 畑氏時代のものと思われるが、多紀郡内に残る山名氏ゆかりの城址、戦国時代に一帯を支配した畑氏の城址として 後世に伝えてほしい史跡だ。

・登城:2009年2月8日