篠山の山城を探索する-殿町


法光寺城址



法光寺城址から、篠山城方面を見る。



県道77号線より法光寺城址遠望 ・ 竪堀を登る ・ 山上の尾根道 ・ 北端の曲輪の切岸



二の曲輪への土橋 ・ 二の曲輪切岸 ・ 三の曲輪切岸と土塁(右端)



土橋と片竪堀 ・ 東方の八上城を見る ・ 最南端四の曲輪へ ・ 連続する曲輪と切岸


戦国時代、多紀郡一帯を支配した波多野氏は、初代の清秀が管領細川政元から多紀郡代に任じられたことで丹波に縁を持った。 清秀は奥谷(殿町)に城を築くと、細川氏を後ろ盾として勢力を拡大していった。やがて朝路山山上に八上城を築き、 奥谷一帯に城下町を営み、元清の代には丹波屈指の実力者に成長した。そして、秀忠の代の天文年間(1532〜54)、殿町西方の 法光寺山一帯に城を築き、八上城、奥谷城と併せて三位一体の防衛線によって城下町を守った。秀忠は娘を三好長慶に嫁がせ細川政権を支えたが、あとを継いだ元秀は長慶と対立、永禄二年(1559)、八上を攻められた。ときに法光寺城は松永久頼(内藤宗勝)に奪われ、元秀・秀治父子は八上城も失い没落の身となった。それから七年後の永禄九年、秀治は八上城を奪還すると、八上一帯を本拠として戦国大名へと雄飛したのである。
法光寺城は八上城側の尾根筋を南北に四つの曲輪、西方の小多田方面の尾根に二つ曲輪を設け、 東西500メートル、南北800メートルにまたがる規模のものだ。個々の曲輪は小ぶりなものだが、土塁や切岸、 堀切などの防御施設を施し、西方からの敵襲に対する高い防衛力を感じさせる。城址への登り道は殿町から、 北方の稲荷神社方面から、小多田方面からとさまざまにあるが、北方にある竪堀と思われる谷筋から城址へと取り付いた。 ほとんど道なき道を攀じ登ること数十分、北端の曲輪にたどり着く。そこから、尾根筋の軽快な山道をたどりながら、四つの曲輪を経巡っていく。それぞれの曲輪は崩れつつあるものの、往時の姿を把握することはできる。生い茂った雑木によって展望はきかないが、かつては、殿町を隔てて東方に八上城、北方に篠山盆地を隔てて多紀連山、西方には松尾山が望めたことであろう。城址に立ってみて、法光寺城の存在意義が実感される。
殿町を本拠として丹波に威を振るった波多野氏であったが、織田信長との戦いが始まると、次第に劣勢に追い込まれていった。 そして、天正六年(1578)、八上城は明智光秀を大将とする織田軍に包囲され、法光寺城は織田方の手に落ち八上城に対する 付城として機能した。光秀は波多野勢を八上城に追い込むと徹底した包囲戦を展開、ついに城内の裏切りによって波多野秀治らは 捕らえられ、八上城は落城となった。天正七年六月のことで、波多野氏の城下町を見つめてきた法光寺城もその使命を 終えたのである。法光寺城は支城、付城という機能を有していただけに、八上城、奥谷城などと比べるといささか大味なものだ。 しかし、波多野氏の本城の八上城、城下町の殿町と併せて探訪すれば、戦国時代の名残を感じることができるところだ。

・登城:2009年1月24日