篠山の山城を探索する-殿町


奥谷城址



東仙寺谷から殿町方面を見る。右手の小山が奥谷城址。 



奥谷城址遠望 ・ 登り口 ・ 山上主郭の切岸と南曲輪を見る ・ 主郭虎口



北曲輪へ ・ 土橋と竪堀 ・ 北端の大堀切



竪堀を見上げる ・ 居館曲輪北側の土塁 ・ 八上城を見る ・ 城下町の俤が残る山麓の集落


波多野氏の居城といえば、三好氏、織田氏の軍勢を迎え撃った八上城が知られる。しかし、丹波武士としては新参者の 波多野氏がはじめて居城を築いたのは、永正年間(1504〜21)、二代の元清が浅路山(高城山)西麓の八上奥谷に築いた 蕪丸(奥谷)城がはじめである。奥谷城址は高城山から伸びる南西尾根先端の小山にあり、 奥谷を貫流する奥谷川を天然の濠とした要害である。登り口は南西麓の道路側で、城址説明板が格好の目印として立っている。 道路はかつて堀が埋め立てられたものだが、結果として堀の形状をよく残したともいえそうだ。
城址に取りつくとすぐに虎口で、前方に居館のあった曲輪の切岸が立ちはだかり、 右方向に上っていくと右手に雑草に覆われた帯曲輪が設けられている。攻め手は虎口を通過するときに少なからぬ犠牲を強いられ、 さらに攻め上ると居館と右手帯曲輪からの挟撃にさらされることになる。なかなか、よく考えられた虎口構造である。 虎口を越え山上の曲輪を目指して急斜面を這うようにして登ること数分、山上主郭の切岸と帯曲輪へとたどり着く。 主郭は結構な広さで、北東斜面には帯曲輪、竪堀などが設けられている。高城山方面に続く尾根にも曲輪が設けられ、 主郭とは土橋で結ばれ、土橋の両側には見事な竪堀が穿たれている。そして、曲輪先端は高さ十メートル以上ある大堀切で断ち切られ、 城址と高城山方面とを分離している。 全体として小さな城だが、説明版も立てられ、曲輪・竪堀・大堀切なども明確に残っており、 戦国時代の山城としては得がたい史跡である。しかし、城址一帯は竹・雑草・雑木が生い茂るにまかされ、 それぞれの曲輪からの視界もほとんどなかった。ちょっとの城址整備と案内標識などを設けるだけで、 素晴らしい歴史勉強の場になると思われるだけに残念なことだ。
丹波に地歩を築いた波多野氏は、その後、高城山上に八上城を築き、奥谷城のある殿町一帯は城下町として整備された。 そして、秀治の代には丹波の戦国大名となったが、織田信長との戦いに敗れ、八上城における籠城戦のすえに滅亡してしまった。 奥谷城は丹波に大きな足跡を刻んだ波多野氏が、大名への道を走り始めた揺籃期を過ごした城址だ。

・登城:2009年1月24日・2007年12月16日