摂津国-岐尼神社




天孫降臨伝説、清和源氏とのゆかりを伝える式内社


岐尼神社
岐尼神社を遠望、後方の山上に森上城址 ・ 境内へ ・ 拝殿を見る ・ 拝殿と古木

拝殿の幕紋 ・ 瓦の巴紋 ・ 境内の末社群 ・ 能勢氏が塩川氏と戦った古戦場
 

能勢町森上の地に鎮座し「延喜式神名帳」能勢郡の条に岐尼神社とみえる式内社である。かつて森上のあたりは枳根荘の一部であったことから、「枳根・枳禰・杵宮」あるいは「杵大明神」とも呼ばれていた。祭神は「天孫瓊々杵尊」、中臣氏の祖神「天児屋根命」、大名草彦命の子「枳根命」、そして源満仲である。
瓊々杵尊といえば天孫降臨神話に登場する神で、岐尼神社にも天孫降臨の説話が伝来している。すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し荒菰を敷いて迎えたという。この「杵」、天下った「杵尊」のひびきから社名「きね」が起こったと考えられている。また、天下った丘はいまも「天神山」と呼ばれている。
社伝によれば、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという。さらに祭神の一柱である「源満仲」は多田の地の開発領主であり子孫は清和源氏としておおいに栄えた。多田には満仲の家臣・一族らが入って開発治世につとめ、多田満仲が祭神として加えられたようだ。
森上のあたりは丹波と摂津の境目にあたり、戦国時代には清和源氏の流れをくむ小武士団西郷衆が割拠していた。そして、岐尼神社後方の山上に築かれた森上城には能勢氏の一族が入り、南方の摂津山下城主に拠る塩川氏、丹波の波多野氏らと対峙していた。天文十四年(1545)波多野氏の攻撃で月峯寺が焼き討ちされ、つづいて天文十八年には塩川伯耆守の侵攻にさらされた。塩川氏との戦いは「岐尼の宮合戦」と呼ばれ、森上城主能勢小重郎を大将とする西郷衆の勝利に終わった。討たれた塩川衆を葬ったあとが「多田塚」としていまに伝わっている。
その後、天正七年(1579)織田信澄の乱入によって、社殿は兵火に罹って焼亡、伝来していた古文書も失われた。関ヶ原の合戦を経て戦乱も落ち着いた慶長十年(1605)、社殿が再建され、さらに江戸時代の享保十二年(1727)にも修復の手が入って現在に至っている。
【神社境内説明板より】


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