近江国-湯谷神社




むかし、病に霊験あらたかな温泉が湧出したことから名づけられた出雲系の古社


湯谷神社
 
正面の鳥居 ・ 本殿前の鳥居 ・ 拝殿へ ・ 拝殿を見る ・ 石灯籠に彫られた神紋

 
牛頭天王社 ・ 山王権現社 ・ 春川稲荷神社 ・ 後方山上の太尾城址堀切 ・ 太尾城址主郭からの眺望

 

祭神は大巳貴神を主祭神として、保食神・豊受大神・宇迦之御魂神・水門神・宗像神・速秋津日神を合祀する。 由緒によれば、むかし諸国を巡っていた出雲国人が、近江国坂田郡の山谷に至り、里人をして 地を掘らせたところ霊泉が湧き出してきた。さらに蘆荻、雑草が生い茂っていた荒地を開拓し五穀の種を蒔いたところ、 五穀は見事に実って豊かな収穫をもたらした。これは大巳貴神の霊験なりとおおいに喜んだ里人たちは、 山谷の岩上(岩倉)に祠を建てて大巳貴神を奉斎した。これが、湯谷神社の始まりだといい、大巳貴神は出雲の国造りをなした大国主神である。 『近江與地志略』には湯谷に関して、湯谷はむかし温泉ありて諸病を治していたが、ある日、葦毛の子をこの湯坪に洗ったことで 湯が枯れてしまったとある。そして、その湯は摂津国有馬温泉に移ってしまったという。
神社のある米原の地は、奈良時代より富永六十七條の荘と称され、桓武天皇の御世、大膳職御厨所の管するとことなった。 その後、後三条天皇の延久二年(1071)二月、御厨所は停止され、後白河天皇は山門日吉の供料に寄進されて、寿永 二年(1183)日吉社の領するところとなった。よって、土地鎮護の神とされ、山王権現社(六所権現社)と称されるようになった。
中世、近江坂田郡は近江源氏佐々木氏の一族京極氏が支配し、神社後方の太尾山には城塞が築かれ、 湯谷神社は太尾城の守護神として崇められた。太尾城主の米原氏は、社殿の修築や社領の寄進を行なった。また、 文明四年(1545)には、箕浦城主今井備前守が本殿造営を行なうなど近在の武家が崇敬を寄せた。しかし、 太尾城は江北と江南の境目に位置することから、数多の合戦に舞台となり、湯谷神社も兵火によって度々焼失、 元亀三年(1573)には浅井長政の兵火に罹って焼失したことが知られる。江戸時代、彦根藩主井伊氏の崇敬が厚く 社殿修理、神器等の寄進があり、現在の拝殿は天保四年(1833)に造営されたものである。
[神社案内板の由緒書 など]

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