家紋 宇佐神宮

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宇佐氏



 宇佐神宮は、分祀が全国に二万四千以上もある八幡社の総本社である。そしてその主祭神は応神天皇で、すべての八幡社がみな同じである。ただし、相殿神となると、宇佐と分社の第一である石清水および鶴岡の両八幡宮は比売神と神功皇后を祭り、筑前の筥崎宮は神功皇后と玉依姫、肥前の千栗・豊後の柞原両八幡宮は仲哀天皇と神功皇后、とされて少しずつ異なる。この相違には祭祀上あるいは適地性というものが推察されるが、八幡神が応神天皇であることは変わらない。
 古文献によれば、宇佐神宮ははじめ単に八幡社・八幡宮などといって「宇佐」の地名はついていない。それが、のちに石清水八幡宮が勧請されてから、それと区別する必要上、やがて宇佐八幡宮と呼ばれるようになった。また、八幡の文字は奈良時代ヤハタと読んでおり、ハチマンと音読するようになるのは平安時代以後のことであって、八幡神はもとヤハタ神であった。しかし、ヤハタ神とは何かとなると、諸説あるが未だ詳らかではない。
 『延喜式』の神名帳をみると、豊前国の神社は六座しかなく、そのうち宇佐郡は三座で「八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫廟神社」を挙げ、並びに名神大社とされている。この三座は宇佐の本殿が三座から成り、向かって左から一の御殿に八幡大神(応神天皇)、二の御殿に比売大神、三の御殿に神功皇后を祭っているのに照応するが、はじめは比売大神がこの地の土豪宇佐氏の氏神として発展したらしい。
 宇佐八幡宮は、中世には豊前国の一宮となり、またその経済的基盤として社領もすこぶる多かった。すでに平安時代の初め、八幡神・比口羊神の神封千四百十戸があり、のちの『宇佐大鏡』に豊前・豊後・日向の三国七郡の御封田六百四十烟とあり、これは建久年間(1190-99)の図田帳により詳細に知られる。これらの地を基礎として経遺産時代の末から各地に社領荘園が営まれ、宇佐宮領は右三国のほか、筑前・筑後・肥後にも及んで本御荘十八荘と呼ばれた。
 ところで、戦国時代になると宇佐の宮寺領も次第に武士の押領するところとなり、秀吉のとき残った社領もすべて没収された。しかし、天正十七年(1589)黒田長政が三百石の所領を寄せ、文禄元年(1592)社殿を造営、次いで中津城に入った細川忠興は千石、次に松平重直が七百石とし、正保三年(1646)徳川家光から改めて朱印領千石が寄せられた。
 神職は、はじめ大神氏が務めたが、平安時代の中頃神主職を宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲した。
 宇佐氏は菟狭津彦命を祖とし、宇佐八幡宮の神主家で、古くは宇佐国造家であった。欽明天皇の時代に諸石が八幡宮を勧請したのにはじまり、元明天皇の時、沙門法蓮が医術にすぐれた功によって、一族とともに宇佐公の姓を賜わったという。
 平安時代初期に大神氏とともに、宇佐公池守が宮司に補せられ、のち大神氏は衰えて、池守の子孫が大宮司を世襲し、鎌倉時代末期の宇佐公世の代から二家に分かれた。兄の公成が宮成家、弟の公連が到津家を称し、この二家が交互に大宮司職を継ぎ、明治に至っている。
 庶流に、岩根・横代・平田・安心院・稲用・出光・益永・永弘・小山田・江嶋の諸氏が出ている。
【三つ巴紋】


■参考略系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]