家紋 大山祇神社

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大祝(三島)氏



 中国大陸、朝鮮半島からわが国に請来される文化・文明は九州を窓口とし、瀬戸内海を通って海路京・大阪へ運ばれてきた。瀬戸内海のほぼ中央、内海のうちでも島々の輻湊する芸予諸島の中心をなす大三島は、大山祇神社信仰の島であると同時に、交通・文化の要衝として古くから栄えてきた。
 養老三年(719)四月二十二日、島の東部瀬戸から現在の地に鎮座地を移し、前後十六年に及ぶ大造営が完成して鎮座祭が行われた。
 『延喜式』神名帳伊予国越智郡に大山積神社とあるのが大山祇神社で、全国的には山神として知られる。ところが『伊予風土記』に「御嶋、座す神の御名は大山積の神、一名は、和多志の大神(海上保安の神)なり」と見え、山神でありながら海神の信仰が古来からあったことが知られる。
 源平合戦をはじめ、蒙古襲来などにおいて、大山祇神社を氏神と仰ぐ河野氏の活躍するともに、瀬戸内水軍の守護神として喧伝され、今日に甲胄・刀剣を中心とする多数の武具(美術工芸品)が武将たちから奉納される、伝えられる因となった。
 いまも、全国一万余を数える大山祇神を祀る三島社の総本山として、篤い信仰を受けている。

古代豪族越智氏の後裔

 大山祇神社の社家は三島大祝家と呼ばれ、伊予小市国造の越智氏の後裔であり、さきの河野氏とは先祖を同じくする同族である。越智氏は饒速日命の子孫を称し、越智郡少領武男の孫玉興が越智郡大領となり、その子玉澄、そしてその子にあたるとされる安元が三島大社(大山祇神社)の初代大祝となったと伝える。
 ところで、大山積神社所蔵文書にある系図によれば、玉澄を玉興の弟としその子が安元であるとしている。玉澄は藤原広嗣の乱に際して、大野東人に従って乱の鎮圧に功があった。また、玉澄の孫広成は越智宿禰姓を与えられ、以後、伊予に分流が蟠踞し勢力を培った。その後裔の一流から河野氏が出たことはいうまでもない。
 大山祇神社の神紋は、有名な「折敷に三文字」。折敷とは神に捧げる供物をのせる器で三方のこと、それに大三島の頭文字「三」を入れたものである。すなわち、大山祇神を紋章化したものである。やがて、大山祇神社を信仰する、氏子たちが神紋を家紋として用い出だしたことから、後世「折敷に三文字」紋が大いに広まった。河野氏も「折敷に三文字」であり、その一族である一柳・来留島・稲葉の諸氏も同紋を使用した。
 大山祇神社の祝家は越智姓であり、鎌倉時代の頃から宗家は大祝を家名とした。戦国時代になると、瀬戸内水軍の領袖的存在となり、神事に尽くしながらも兵馬のことにも携わるようになった。そして、大祝安舎のとき、大内氏の攻略にあい、大内氏配下に甘んじるようになった。その後、大内氏が滅び、毛利氏らからの信仰を集め、江戸時代には参勤交代で江戸と松山を往復する藩主に対し、海陸道中安全祈願がしばしば行われた。そして、大祝家は近世になって三島を名乗り、いまに三島大祝家として続いている。
【折敷に揺れ三文字】



■大祝家三島氏系図
   


[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]