家紋 宮地嶽神社

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別当職



 祭神息長足比売命は、史上に著名な第十四代天皇仲哀天皇の后で神功皇后である。千六百年前、仲哀天皇亡き後自ら渡韓のみぎり、この地に滞在され、後方の山から大海原を見られ、祭壇を設け天津神に御祈祷なされてこの地より船出をされたという。
 そして帰還後、「宮地嶽」の山頂に祠を建て、天津神を奉祀され、勝村・勝頼の二柱の従神にこの祠掌を命じられたことに始まる。
 宗像大社の鎌倉期の年中行事を記す『宗像宮年中諸神事供下行事』には、宮地嶽神社の「嶽祭」のことが見えており、正平二十三年(1328)『宗像年中行事』の七十五末社の条には、宮地嶽神社と勝村大明神が並んで見えて、神事に関する詳細な記事が出ており、宗像大宮司より奉献された祭桑田・御供田・九拝田等の名称を残す神田が、今もなお宮地嶽神社の付近に残っていることから、すでに五・六百年前から相当盛大なる神社であったことが想像される。
 ところで、宮地嶽の中腹に九州では最大といわれる大きさを誇る横穴式石室古墳がある。全長二十三メートル、高さ五メートル、幅四・八メートル、巨石八つで左右を囲んだ巨大古墳は寛保元年(1741)、宮地嶽の山崩れにより初めて、その口を開け、当時の村人たちはこの古墳の全容のあまりの見事さに畏怖驚愕し、延亨四年(1747)この石室内に霊験あらたかな不動尊を祀るようになった。
 この古墳の特徴は、立方体に切った非常に大きな岩を使って、素晴しく大規模なものを築いているということで、奈良の飛鳥にある石舞台古墳に匹敵するほど長大であり、考古学者の注目の的となっている。この古墳からは冠・馬具・刀装具・ガラス玉や骨蔵器等の宝物が出土し、うち二十点は国宝に指定されている。
 なかでも、金銅装透彫冠は精巧な冠残欠純金の歩揺がついた跡が残っている。さらに、 わが国第一級の国宝である金銅装頭権大刀は、全長二メートルにもおよぶ全国最大級の大刀で、当時、 この一帯を治めた埋葬者の絶大な威勢を示して余りあるものである。 【二重輪に三階松】


   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]