家紋 日御碕神社

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小野氏



 島根半島の西橋、『出雲国風土記』の国引の条にいう「八穂爾支豆支乃御崎」の突端の「御前浜」に鎮座し、風土記出雲郡の在神祇官社「美佐伎社」『延喜式』の「御碕神社」に当たる。
 島根半島の南部は、阿須伎神社をはじめとして、官社と国社が八十有余も鎮座するほど小集落が密集していたが、北部の杵築郷やその東隣の宇賀郷の北部は岩だらけの海岸地帯で、集落の発達も少なく、わずかな砂浜が点在し、風土記に「宇礼保浜。広さ七十八歩、船二十ばかり泊つべし」「御前浜。広さ一百二十歩、百姓の家あり」とみえる二箇所ぐらいが、目だった集落の所在地であったらしい。しかし、御前浜は唯一の官社の所在地であることからして、漁業の中心地であり交通の要衝であったとみるべきだろう。

その興り

 御碕神社は『延喜式』以前には、風土記に見えても『古事記』などには登場しない。また、風土記の神社配列がおおむね当時の社格順によるとの見解に立つならば、第十二番目に記されている御碕神社はかなり下方に位置づけられていたこととなる。おそらく、本来は一地方神を祀る神社であったと思われる。
 御碕神社は同一境内の東西に「上の社(神の宮)」「下の社」という別個の建物が並んでいて、出雲地方でも特異な構成の神社として知られている。社伝によると、人皇三代安寧天皇の御代、後方の隠丘にあった「美佐伎社」を遷したのが「上の社」、村上天皇の天暦二年(948)前面の経島にあった「百枝槐社」を遷したものが「下の社」で、以後は両社を総称して「日御碕大神宮」と称するようになったという。しかし、この社伝を傍証する資料はいまのところ見つかっていない。
 祭神は下の社が天照大神、上の社が素戔鳴尊で、現在は下の社を上位視するが、かつては、出雲の神を祀る官社であった上の社の方が重視されていたようだ。下の社は一名「日沈宮」といい、おそらくは、日本海に沈む荘厳・美麗な夕陽を崇拝する古代の人々が経島に祀った小祠が発展して百枝槐社となり、やがて天照大神への信仰と結び付いて現在地に遷されたものであろう。
 『日御碕文書』によれば、最古に属する寛和二年(986)や永延二年(988)のものには「新院の宣旨」云々とあって北の浦や出雲郡内に神領の名がみえ、また遠く伯耆国にも社領を持つようになった。そして漸次中央にも名を知られ、平安末期の『梁塵秘抄』にも日御碕を歌った歌謡が収められ、鎌倉時代初期には、平安期以来の社領に加えて石見国にも社領を有し、しだいに大勢力に発展し、南北朝期には楯縫郡内にも荘園を広げた。

勢力の拡大

 室町時代に入って幕府とも関係を深め、応永二十七年(1420)の「造営勧進状」の奉加の署判者には将軍足利義政、 管領細川満元、出雲守護京極持高らが名を列ねている。すなわち幕府のお声がかりで造営の費用を募ったもので、 応永二十五年から始まって永享五年(1433)にようやく遷宮が行われるほどの大造営であった。また、大永四年(1524)の「勧進簿」には将軍足利義稙、出雲守護尼子経久、奉行亀井能登守秀綱が署判し、出雲・伯耆・石見・隠岐の各国に対して棟別銭が下令されている。しかし、勢力の拡大につれてすでに鎌倉時代から杵築大社との間に所領争奪や境界紛争が起こり、その模様は両社の所蔵文書の随所にうかがわれる。
 戦国末期に一時衰退したが、元和年間御碕神社の荒廃を嘆いた社僧の順式慶雄が社殿の修復を幕府に懇請した結果、三代将軍家光の寛永十四年に認められ、幕命により松江藩主京極忠高が奉行となって「日御碕の天下普請」が始まった。忠高は途中で病死したが、代わって入部した松平直政が普請を引き継ぎ、寛永二十一年(1644)に竣工したのが現社殿である。
 社領は中世末には四千石に達していたが、戦国の争乱や朝鮮出兵などによって減少したらしく、近世、堀尾氏の入部に伴って改めて七百八十石の寄進を受け、その後京極氏、松平氏のもとで徐々に増加し、明治元年には、出雲国内で杵築大社に次ぐ千二百八十五石余になっていた。
 社人については、明和三年(1766)の「社法式帳」に、検校のもとに上官・被官・楽人・神子・神人など計六十四人がいたことが見える。検校とは日御碕神社では正神主のことで、代々小野家が専掌した。小野家は家譜によると、素戔鳴尊の五世孫天葺根命の後裔で、一時は日置姓を名乗ったこともあったという。明治維新後は男爵を授けられた。
 毎年、大晦日に行われる神剣奉天神事は、素戔鳴尊が八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得たとき、小野家の祖天葺根命を使いとして天照大神に奉献した故事に因むという。神主小野家に伝わる一子相伝の神事で、斎主たる宮司は十二月二十五日から七日間潔斎し、十二月三十一日の深夜にただひとり社前の天一山に登ってこれを行う。この神事は古代から今日まで絶えたことがなく、当夜は雨・雪がどんなにはげしくとも、祭典が始まると同時に晴れ渡り、いまだかつて斎主の祭服を濡らしたことがないという。
【三つ柏】



■小野氏参考略系図
代数が多いのは、神職を継いだものを一系とした結果であろう。
   



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]