家紋 高良大社

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神代氏



 古くは高良玉垂命神社のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。筑後国の一宮で、式内大社である。その社殿は広大な筑紫平野と筑後川の流れを一望の下に収める高良山の山腹、史跡高良山神籠石の最高部に位置しており、社背の尾根上には古代の祭祀遺跡がある。

神名の謎

 主神高良玉垂命については「高良」は鎮座の地名、「玉垂」は御神徳を表わすと解されるが、『記紀』などの古典に見えぬ神名であるため、古くより祭神をめぐる論議が絶えない。一般に九州の古社は、八幡神を中心に、国防を意識して提携するといわれ、高良神も、中世以降は八幡宮第一の伴神と位置付けられ、その活動は、神功皇后異国征伐の縁起のなかで語られている。
 そこで、これを史上実在の人物の求め、武内宿禰に宛てる説が根強く行われてきた。民間の武運長久、延命長寿、厄除けの信仰もこれに基づいている。しかし、この神を月神と説くのも古縁起に共通した伝えであり、最近では『肥前風土記』に見える大足彦(景行)天皇の「高羅行宮」の伝承から、景行天皇の裔を称する筑紫地方の古代豪族「水沼君」の祖先神であろうとの主張も行われている。
 いずれにしろ、規模壮大な神籠石の列石に囲まれた、九州屈指の古社として、継体朝のときの反乱で名高い筑紫君磐井の本拠、あるいは邪馬台国女王卑弥呼の治所論まで盛んになっている。高良社の国史上の初見は『日本紀略』にみえる延略十四年(795)従五位下に叙されたことであるが、弘仁九年(818)名神に列し、以後神階を進めて貞観十一年(869)、従一位に達した。さらに寛平九年(897)極位を超えて正一位を授けられたと社宝の『国内神名帳』にみえる。寛仁元年(1017)には、宗像・阿蘇・宇佐の各社とともに、一代一度の奉幣に与っている。
 八幡宮と同様、早くから仏教と習合したことも高良社の特徴で、祭神を「護国神通高良大菩薩」と呼び、神孫を称する大祝・大宮司に加えて、座主丹波氏が一山の衆徒を率いて神前に奉仕した。十二世紀の末、源平の争乱で荒廃したが、鎌倉時代、二度にわたる蒙古襲来に際して神験著しく、幕府の崇敬、他社に異なるものがあった。
 以後、式微と復興とを繰り返しながら、桃山時代に至り、豊臣秀吉により神領千石を寄進された。そして、江戸時代には先の千石を基盤に、久留米藩主有馬家歴代の庇護と崇敬を受け、筑後国一宮としての威容が整えられた。

神職、神代氏

 高良神社の神職は丹波・物部・安曇部・草壁・百済の五姓があり、丹波氏がはじめ大宮司と座主を兼ねていたが、大祝の物部氏が栄えて大宮司座主にもなり、鏡山・神代・宗崎の諸氏に分かれた。
 神代という名は、神功皇后遠征のとき、武内宿禰の武略知謀が神の如き働きをしたので、皇后は「神の代わり」との意味で「神代」の二字を授けたと伝える。その読み方は「くましろ」だが、昔は熊代と書いたのを後に神代に変えたという。神代氏は代々、高良神社に奉仕してきたが、文治元年(1185)、神代良光のころ、高良山から北へ二キロ、筑後川左岸の神代村に館を建てて移住し、武士化していった。
 神代村は、筑後川筋における太宰府と筑後を結ぶ交通の要衝であり、神代氏はこの「神代渡し」の通行権を管理していたといわれ、戦国末期の島津氏の記録にも「隈代の渡」として記されている。
 応仁の乱後、天下は大いに乱れて下剋上の世となり、筑後一の宮の高良山も、戦勝祈願のために利用され、戦乱の渦中に巻き込まれる。そのころ、神代の周辺では、蒲池・草野・西牟田らの筑後の有力国人たちの勢力が強く、神代対馬守宗元は、彼等の勢力に対抗できず、神代の地を去って肥前に落ちていった。
 やがて、神代宗元は上佐賀の千布村に住し、完全に武士化し、その子勝利は戦国武将として肥前国に 確固たる勢力を築くようになる。勝利は少弐氏に属し、山内に勢力を培い、その武勇と知謀によって 一躍肥前の有力武将に成長した。少弐氏が龍造寺隆信によって滅ぼされたあとも、隆信に屈せず、互角に戦ったことは 有名である。晩年にいたって、隆信と和睦をし、子孫は鍋島氏の重臣となった。
【横木瓜】

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■神代氏参考略系図
   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]