家紋 出雲大社

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出雲国造家



 「記紀」神話によると、オオクニヌシ(大国主)に国譲りの交渉を始めようとしたとき、アマテラス(天照)が誰を使者として遣わしたがよいか、もろもろの神を集めて訊ねた。すると、アメノホヒ(天穂日)は神の傑(イサオ)であるから、これを使いにやってみたらよい、との意見が出た。アマテラスはそれらの言葉にしたがって、アメノホヒを葦原の中国のオオクニヌシの許に往かせた。ところがアメノホヒはオオクニヌシにおもねり、媚びて三年になっても戻ってこなかった。アマテラスはアメノホヒの子のオオソビノミクマノウシ(大背飯三熊之大人)を遣わしたが、これも父アメノホヒに従って戻って来ず、役を果たさなかった。
 国譲りの交渉は、このあとアメノワカヒコが使者として遣わされ、これも責を果たさなかったので、タケミカヅチと アメノトリフネが派遣され、稲佐の浜でオオクニヌシに国譲りを迫った。子のコトシロヌシは国譲りに賛成したので、 オオクニヌシは国譲りの代償として「天日隅宮」と呼ばれる大きな社の造営をしてくれるよう求めた。これがのちの 「出雲大社」であるとされる。

オオクニヌシを祭祀

 この宮にオオクニヌシが祀られ、アメノホヒがこの祭祀を司るように命じられた。
 こうして、アメノホヒの子孫がオオクニヌシの祭りを行うようになり、その後裔が出雲臣氏で、出雲国造であり、出雲大社の宮司をつとめてきた千家氏と北島氏である。
 『旧事本記』に収められている「国造本紀」には、第十代の崇神天皇のときに、アメノホヒの十一世の孫宇賀都久怒を出雲の国造に任ずると定めたとしている。このウカツクヌのあたりが神話から歴史につながる頃であろうと思われる。いずれにしても出雲国造はウカツクヌから始まる。オオクニヌシを祀る職務に加えて、出雲国の政治も行う権利が与えられたのである。
 大化の改新によって、それまでの国造を廃止して、諸国には新しく国司や郡司が置かれるようになり、国司は中央から派遣された。出雲国造はそれまで出雲一国の支配権を握っていたが、新任の国司の下で郡司である大領に任ぜられた。かくして、権力は縮小され、神事にのみ関与するものとなったが、出雲国造は律令体制下にあて特別な計らいを受けていた。そのひとつが新しく国造に補任されたとき、「出雲国造神賀詞」を朝廷に上がって奏上する儀式を行ったことである。奏上の儀を行ったことは諸記録に見え、果安、広嶋、弟山、益方などの国造の名が知られる。
 国造家が千家姓と北島姓を名乗るようになるのは、南北朝期からである。康永年間(1342-44)のことである。

国造家の分裂

 五十四代国造孝時には幾人もの男子が居り、孝時は六郎貞孝を愛して、これに国造職を譲りたいと思った。六郎もいつの間にか、そのように思い込んでいた。いよいよ孝時が六郎に譲ろうとすると、孝時の母覚日尼が口を入れた。「三郎清孝は病気がちではあるが兄である。任に耐えられないことはないから、少しの間だけでも、三郎に継がせ、そのあとに六郎に譲ったらどうか」と言った。
 孝時は母の言葉に従って、三郎に国造職を譲った。しかし、三郎は職務を遂行できず、弟の五郎孝宗を国造代理にして職務を一任した。そしてしばらくの代理期間ののちに三郎は五郎に国造職を譲ったので、五郎が第五十六代国造に就いた。
 この相続を不当として、国造の継承者は自分であると主張したのが六郎である。父の遺志も、周りの者も六郎自身も、「次の国造は六郎である」という気持ちになっていた。されだけに五郎に譲られたのは不服である。六郎は怒って、五郎に速やかに自分に譲るようにと求めた。が、五郎は一蹴して、それに応じようとしなかった。
 話し合いでは解決の糸口は見つからず、六郎は力でもって社務や社領を奪うしかないということになり、守護の塩谷高貞の力を借り、弓矢を取って大社に立て篭った。五郎も社家や領民を駆り集めて、力でもってこれに対抗した。社前において小競り合いが繰り返され、争いは続いた。このため、康永二年(1343)は幾つかの神事は中止され、争いは乱闘となった。覚日尼は六郎の方を応援し、六郎も国造職に強い執着を見せた。
 守護代の吉田厳覚が双方の間を仲裁しようとして、両者の言い分を聞き、折衝に入ったが、らちはあかなかった。やむなく、厳覚は二家の両立案を出した。六郎は「本家、分家という考え方や呼び方を廃し、同格の二流という考え方で、あらゆる条件を五分にするということならば、承諾してもよい」と、譲歩する遺志をみせた。

現代、唯一の国造家

 そこで、年間の祭事、役職、所領、雑事など、すべてにわたって等しく二分し、紛争の種を残さないように配慮し、 和解状を取り交わした。これが康永三年(1344)六月のことであった。ここにおいて、五郎孝宗は千家の姓を名乗り、 六郎貞孝は北島の姓を名乗り、両家とも国造五十六代を称し、併立した。以後、両家並んで代数を重ねて現代に至った。 出雲大社では神職を神主とも宮司ともいわず、今日まで国造(こくぞう)を職名としている。
【亀甲に剣花菱紋】

■出雲国造略系図(PDF)を見る

   

[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]