創建は奈良時代と伝え、祭神は天忍骨命で、延喜式神名帳に「田川郡 忍骨命神社」とあるのがそれである。しかし、上古から神仏習合で役小角の開山といい、中世以降修経験道の道場となり、座主が一山を総轄し、東嶺の求菩提山、西嶺の宝珠山と並んで山中に堂塔多く、大衆三千と称されて大いに栄えた。
また、彦山大権現の牛王宝印を頒布して武士・農民間に信仰を広め、その勢力は諸侯に匹敵するといわれ、神領また広大で方七万里と称された。
近世に、小笠原氏から黒印領三百石、細川氏からは百石を寄せられた。寺号を霊山寺といい、天台宗の別本山に列せられた。幕末には一山あげて勤王に尽くし、攘夷の祈願を行ったが、長州藩と結んだため、小倉藩兵に攻められて多くの山伏が斬られた。
英彦山の座主職は、鎌倉時代になって、宇都宮氏が英彦山との提携をはかり、元弘三年(1333)長助法親王を座主に迎えた。長助法親王は北朝方天皇初代の光巌天皇の弟で、いわゆる持明院統の出身であった。これは、宇都宮氏が南朝方と対抗するうえでも絶好の主となった。座主職そのものは以前からあったが、、長助法親王が正式に初代の英彦山座主であり、また彦山大宮司と称した初めであったらしい。
僧職は妻帯しないのが原則であるが、長助法親王は宇都宮頼綱の姪を正室とし、通常は筑前国上座郡黒川庄の黒川院を院室とした。これより歴代、長助法親王の子孫が座主職を世襲することになったのである。なお長助法親王はのちに助有法親王と改めている。
戦国乱世になるとい、英彦山も安泰ではなく、天正九年(1581)十月、大友宗麟が大軍をもって来襲、全山ほとんどが灰燼に帰した。ときの座主舜有は、黒川院を去って彦山南谷華蔵院に移った。その後、山上の堂宇は改築されてものの、天正十四年、彦山の衆徒が豊臣秀吉の意に背いたため、またも火が放たれ、翌年、舜有は肥後南関の秀吉の陣所に至り、赦免を乞うた。しかし、舜有はその年の六月に没し、神領はことごとく没収され、ここに座主職は断絶した。そして、舜有の女と秋月竹千代の間に生まれた昌千代が座主代職をつとめ女座主が出現した。
慶長六年、小倉に入封した細川忠興が、公家日野輝資の三男を養子として座主職を相続させ、忠有と称した。しかし、忠有にも男子がなく、岩倉具堯のお二男が迎えられて座主有清となた。以後、子孫が相継ぎ明治に至った。明治元年、ときの座主教有は還俗して英彦山大宮司となり、高千穂通綱と改めた。のちにその養子宣麿に男爵が授けられた。
【抱き鷹の羽の内二つ引両】

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