家紋 鶴岡八幡宮

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大伴氏


 逢坂の関以東、坂東の八幡宮といえば鶴岡八幡宮のことを指す。鎌倉時代以来「関東」といえば源頼朝および その政体を現している。

源頼朝の篤い崇敬

 鎌倉に八幡宮が祀られたのは早く、康平六年(1063)秋八月といわれる。源頼朝は治承四年(1180)伊豆に兵を起こすが敗れて、石橋山から安房・下総に逃れ、関東八ケ国の武士の協力を求める。その間二か月足らずで坂東武者の大勢が旗下に集まり、拠点は鎌倉に置くべしと進められる。
 鎌倉は海は海道として開け、三方が山に囲まれた要害の地。それに先祖が既に社を経てて東国源氏の本拠でもあった。源頼朝は大軍とともに鎌倉に入り、二日後には鶴岡八幡宮を現在地に遷し、次いで、源平池・若宮大路等を造成し、境内および神職らの居住地を定め、自らの居館を決定した。『吾妻鑑』には、「祖宗を崇めんが為めに」と記している。
 源頼義・義家以下の源家の東国における家職を継承することを宣言し、頼義以来旗下にあった平氏・藤原氏等を出自とする武士団らの所領安堵の保証を行ったわけである、いわゆる「お墨付き」の始まりである。
 鶴岡八幡宮は、源家嫡流が奉斎する氏神で、家祖以来の鎌倉殿の正統の職務であった。頼朝は、その後京都の藤原氏を通じ、和平を図るが、八幡宮に七夜を籠って手紙を書いたと告げる。京都では八幡神は春日社とともに絶大な霊験の神であったから、その意義は大きかった。
 かくして、草創期十年を経て関東以西の治安は頼朝の掌握するところとなった。そして、建久二年(1191)十一月二十一日、現在の山腹に上宮を建て、改めて京都から石清水八幡宮を勧請し、下宮の若宮と両社を中心にした社殿が創成され、結構が整えられたのである。以後、歴史の推移とともに若干の変化をみたが、社頭はよく創創期の状況を留めている。
 鶴岡八幡宮の社家は大伴氏であり、系図によれば、大伴家持の孫伴春雄を祖にしている。もっとも、伝える系図によって異同があり、『鶴岡社職系図』では伴善男の後裔としている。大伴忠国が初代の鶴岡八幡宮神主となり、その跡は弟の忠茂が継いで、以来、連綿と社職を務めて現代に至っている。
【鶴 丸】



■社家大伴氏系図
   
系図



[資料:日本史小百科「神社」岡田米夫氏著/国史大辞典ほか]